百姓の子が天下を取る。それは豊臣秀吉という一人の男に託した庶民大衆の夢だった。 その夢は実現したけれど、たちまちうすれていく。
「今や豊臣秀吉は、わしらの味方ではない。しぼりとられて死ぬより、華々しく一揆で死ぬ方がよい。」
「よし、こうなれば一揆じゃ!」
 この太閤検地は、土豪から農民にいたるまでの激しい抵抗にあった。
「見地に逆らうものは、一人も生かしておくなっ。城主であろうと土豪であろうと 農民であろうと、なで斬りにいたせ。」
 秀吉はこう命じて、60余州、厳しく検地は行われていく。
 ついで、天正十六(一五八八)年の七月、
「日本中の僧侶や町人や百姓の、刀ざらいをいたせ。」
 またも秀吉が号令する。刀狩令である。

「ようやく乱世も終わりを告げようとしておるとき、平民までが槍や刀を持っていては、再び戦が起こらぬとも限らない。」
 秀吉は集めた武器を、スキやクワなど、生活の道具に作りなおさせた。 また一方で、東大寺の大仏殿を建て直すための、クギやカスガイに使うと発表した。
「人殺しの道具が寺を建てる道具にかわるのじゃから、仏の功徳で、百姓や町民は来世までも救われようぞ。」
といい含めたものだ。
「百姓は農具さえもち、田畑を耕しておれば子々孫々まで栄える。 大工や左官などの職人も、八百屋などの商人も、本来の仕事にせいを出せ。 百姓が商売をしたり、職人が百姓になって田畑を耕したりすることは、ならぬ。」
 刀狩は、やがて封建社会の士・農・工・商の身分統制につながっていく。

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