今年でオーストラリアが独立してからちょうど100年だということをみなさんはご存知でしょうか。 まだまだ歴史は浅い国ですが、けっこう内容は濃いオーストラリア。ぜひ歴史があまり得意でない人も読んでみてください!


1. ユーラシア大陸ができる

その昔、世界の大陸は1つであったと言われています。 このオーストラリアのユーラシア大陸も以前は他の大陸とつながっていました。 1億数千年前には『ゴンドワナ』と呼ばれる南半球に存在した巨大な大陸の一部でした。 ゴンドワナには、今のアフリカ、オーストラリア、南極、南アメリカ、インドの5大陸と、ニュージーランドなどの島々がまとまって1つになっていたと考えられています。 そして、徐々に大陸が分裂をしていき1億万年前〜4500万年前の間には現在のだいたいの形ができました。



2. アボリジニが渡ってくる

約6〜4万年前、地球は氷河期にありました。 当時、オーストラリアとニューギニアの間の海は大量の水が凍り、現在の海面より122mも低く、2国を自由に渡り歩いて行く事ができました。 そこで、アジアからニューギニアをつたってこの地に移ってきたのが『アボリジニ』です。 彼等は約5万年ほど前にオーストラリアに渡ってきたと考えられています。 なぜ、アボリジニ達がこのオーストラリアを目指したのかはいまだに不明ですが、飢饉や北方の強大な部族に追われたからとも言われています。 その後、地球の温度が上昇を始めたことによってオーストラリアは1つの大陸になりました。 孤立されたアボリジニ達は独特の文化を持ち、先住民として今でもこの地で生活を送っています。


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3. オーストラリア大陸の発見

ヨーロッパにおいてオーストラリア大陸が始めて登場したのは、中世末期のことでした。 しかし、実際は論理学と神話学における架空の大陸でした。 その後、オランダのヤンスがこの架空の大陸を発見すべく遠征隊として航海に出て、1606年に発見しました。 ヤンスはこの大陸が象牙や絹、香辛料がいっぱいあるような理想の土地を期待していました。 だが、代わりにヤンスが見たものは乾燥した土地、「黒い肌をした先住民」だけでした。 その上ヤンスの部下が数人アボリジニに殺害され、彼らはこの地を立ち去りました。 その後もオランダ人だちがオーストラリアにやってくることがあったが、こういったことから上陸してもすぐに立ち去るのが常でした。



4. キャプテン・クックの航海

1768年、英国海軍は金星が太陽を通過するのを観測するためにタヒチへ調査隊を派遣しました。 次に金星が太陽面を通過するのは105年後と言われ、とても貴重だと考えられていました。 調査船『エンデバー号』の船長に任命されたのは、当時41歳のキャプテン・クックでした。 調査団のリーダーを務めたのは当時25歳のジョセフ・バンクスでした。彼はこの若さですでに植物学者として名声をあげていました。 彼らは金星の観測の他にも、南太平洋を探検して伝説であった南方大陸についても調査することになっていました。
タヒチでの天体観測が終わると、調査隊はニュージーランド沿岸の地図の作成に6ヶ月を費やし、次に未知の土地を目指しました。 1770年4月28日、ようやく調査隊はオーストラリアを発見しました。同年、8月にイギリスはこの地域の領有を宣言しました。



5. 流刑囚植民地

アメリカの独立によって、イギリスはかつての植民地のジョージアに囚人を送り込めなくなったため国内の監獄は囚人であふれかえっていました。 当初、この案は支持されなかったが、フランスが太平洋地域に感心を持っている事が分かり、イギリスは流刑囚をオーストラリアに送ることにしました。 1788年、第1回囚人移民船団がシドニーのボタニー湾に到着しました。 しかし、その時期は夏でクックの報告にあったような緑豊かな土地ではなく、ただのやぶになっていました。 その為に、入植地にはとてもではないがむいていませんでした。 シドニーでの生活がようやく軌道に乗りはじめたのは、第2回囚人移民船団が到着してからでした。 その上、囚人達は残酷な日々を強いられ、多くの人が苦しんでいました。



6. 入植地
イギリスの植民地となったオーストラリアは、囚人に溢れかえり、あれた土地になっていました。 そこから繁栄する土地になるためには、まともな人間が必要でした。 その為に、「バウンティ号」の船長のウィリアム・ブライが総監として赴任してきました。 その次に新総監として赴任したのがスコットランド人のラハラン・マックォーリーでした。 その後、オーストラリアは色々と開拓されていきました。


7. ゴールドラッシュ

1851年、エドワード・ハーグレイブスという探鉱者がオフィルで金を発見したのがきっかけとなり、ゴールドラッシュが始まりました。 一夜にして1000人を超える人々が集まり、その後も一獲千金を夢見る人々がぞくぞくと集まってきました。 その後、数週間もしないうちにオーストラリア各地で金が見つかり、その噂もすぐに海外にも伝わり、 中国人やイギリス人などまでもが殺到し、その数は年間で9万人に達しました。



8. オーストラリアの独立

イギリスに発見されてからのオーストラリアは、ずっとイギリスの植民地になっていました。 その上、各植民地は勝手に独自の時間帯を制定したり、切手を発行したり、関税を課すなどして、まったく統一制がありませんでした。 こんな状況ではいけないということで、1901年にようやく連邦制への以降が決まりました。 一番初めにメルボルンが臨時の首都と定められましたが、正式の首都を決めるのには各州の意見はなかなかまとまりませんでした。 そこで、まったく新たな場所に首都を置くことにし、現在のキャンベラが首都になりました。



9. 新しいオーストラリア

戦後、政府の主導によって海外から200万人以上の移民がやってきました。 移民たちは、戦後の好景気に沸く時代で仕事がいっぱいあったことなどから、すんなりとオーストラリア社会に受け入れられました。 政府は水力発電などの大規模な公共事業に巨額の投資を行い、さらに国が繁栄しました。 オーストラリアが今のように多民族国家になったのには、このような背景もありました。 それに加え、つい最近ではシドニーオリンピックが開催され、アボリジニとの共存も話題になりました。 実はシドニーの前にもオーストラリアでオリンピックが開催されていたことをみなさんは知っているでしょうか? 1956年にメルボルンで開かれました。オーストラリアはこれからもっと発展していく国だと考えられそうです。