猩々
――それはオランウータンではなかった――


 猩々(しょうじょう)という想像上の動物も、ルーツを辿れば『山海経』あたりに行きつき、 その描写は禺(ぐう)(というサル)に似て耳が白く、四つんばいで歩くが走るときは人のよう (というのだから立って走るのだろう)、その肉を食うと足が早くなるとか、人の顔をしている が豕(ぶた)に似ていて(そんなことが可能だろうか?)人の名がわかるとか書いてあるだけだ。
 全体的な具体性を欠き、何とかしてその動物のイメージが浮かばないようにと、いじわるして 書いているとしか思えない。
 上のうち「人の名がわかる」というのを、「人語がしゃべれる」と解釈した中国人の注釈家も あり、李時珍は『本草綱目』の中で「猩猩は人に似ていても猴(さる)のたぐいにすぎない。も し、しゃべれるとしてもオウムのようなものにちがいない」と述べ、『爾雅』には、猩々の産地 を交趾封渓県(こうしほうけいけん)としている。これに対して中野美代子氏は「交趾は今のヴェ トナムであるから、スマトラとボルネオにのみ棲息するオランウータンのことがインドシナ半島 に伝わり、それがさらに中国人にも伝わったのかもしれない」と述べている(『孫悟空の誕生』)。
 十八世紀に及んでも、中国よりもオランウータンの原産地からずっと遠い国に住んでいるとは いえ、ヨーロッパにはオランウータンと原住民と、化石人類ジャワ原人との区別がつかず、船乗 りシンドバッドに肩車したきり、歩け歩けと強いて何日も放れない「海の老人」(シャイフ・ア ル・バール)のことを、「オラング・ウタンにちがいない」と解釈して得意顔をしていた人もあっ た。――それを考えると中野さんの考えるようなことは充分あったろう。それに実物を見なかっ たとすれば、李時珍やその他の学者が勝手に自分の意見で決めたからといって、無理ともいえな い。実物は原産地からヴェトナムまで生捕られて運ばれたが、中国内地までは達しなかったのだ ろう。
 そのようなオランウータンが中国なり日本なりに生きて運ばれるところを、途中で死んで皮だ けが届いた――その赤褐色の長毛をさんさんと生やした毛皮が中国人や日本人をおどろかせ、や がて皮だけが交易品、献上品としてもたらされた――ということも何回かはあったであろう。日 本の「猩々緋の陣羽織」とか、「徳川将軍に猩々の皮が献じられた」という記録はそれであり、 やがては能の「猩々」が赤頭の長毛の冠物をおどろに振りみだして出ることにもつながったので ある。

 そこで、一方には古書からの信をおきがたい、具体性を欠いた、わずかな情報があり、一方に は皮だけとか、噂だけとか、実物なしのオランウータンの風聞があり……それらを元にして、  ――人に似て体は狗(いぬ)の如く、声は小児の如く、毛は長く、その色は朱紅色にして、面 貌人に類し、よく人語を解し、酒を好むという想像上の怪獣。  という、今でも『広辞苑』にも出ているような猩々の説明が出来あがった。
 能の「猩々」は「唐土の潯陽江(揚子江)に住む猩々」が酒を飲んで浮かれ舞い、孝子高風を
祝福するという内容である。猩々はどことかの「海中に住む」という説すらある。 猩々はこのようなものと考えられ、ヨーロッパの白人が二言めにはすぐ取り沙汰するように、 「女をさらって行って犯す」とか、「人をおそって引き裂く」といったような――実は彼らがそ れをやりたいのをオランに代行させたような、淫行や兇暴性は示さない。
 もしも「日本人と″猩々″」とでもいうテーマで書くならば、ぜひとも能にあらわれている猩 々を主流にして書かねばなるまい。この芸術作品あるがために、この名は日本人の耳に馴れ、近 代に入ってオランウータン、チンパンジー、ゴリラが知られたとき、ためらうことなくオランを 猩々。チンパンを黒猩々。ゴリラを大猩々と名づけたのである。正式な科学用語にも、以上の三 種の類人猿は「ショウジョウ科」に分類される。高垣眸のごときはゴリラが何と何と、幕末の日 本に生きて運ばれていたという小説を書いて、天竺猩々と名づけた!
 お能で孝子を祝賀するような猩々が、他の作品や実録にあらわれた例はさすがにないようだが、 小山勝清は九州相良の人吉城の相良文書に、「家康公に伽羅香一片・猩々の皮一枚」を献じたと ある記録と――球磨郡北岳神社に残る「宮本武蔵の狒々退治」伝説を一つにつなげて、「それか らの武蔵」の中に一連の武勇伝を創作している。

 日本の″猩々″には、こうした次第で、お能に於いて、その想像上の異獣が発達するという、 他国に例を見ない特徴があった。すると、これらの芸術は、″猩々″が大いに酒を飲むという特 徴をそなえているからこそ発達したのだということがわかる。ではいったい野生動物なら、ある はずのない酒を飲むという特徴は、日本独自の発明かどうか。

 これはモンゴル帝国が成立し、しかしまだ南宋が亡びてはいなかった一二五三年、フランス王 ルイ九世の使節としてカラコルムの宮廷にいたったルブルクが、その中国見聞記、『東遊記』の 中にも紹介していることだそうである。その中に猩々は大いに酒を好むとある由で――それなら この説は中国の古書あるいは俗説にもとづいているわけである。
 中国にはなお、猩々の唇は天下の珍味であるという天下の奇説もあれば、″猩々緋″の赤い色 は猩々自身の血で染めるという説もある。  実吉達郎氏がインドネシアヘ行ったことによると、たしかにオランは「ヒト」という意味で、人々というときは 日本人と同じくくりかえしてオランオランということや、ウータンはむしろフタンと発音され、 森といいたければ「木々」とくりかえしてフタンフタンということとか、オランウータンは実は インドネシア人はミワス、またはマワスとよんでいることなどを学んだ。しかし、だれにきいて も、彼奴(きゃつ)が「酒好き」だという話はなかった。
 大して確信はないのだが、私の知りあったインドネシア人はもはや、そんなことは忘れている にしろ、かつては彼らの国を侵略支配した白人たちを欺いたりからかったり、仕返ししたりした 過去が、彼らにはある。そこに推測の手がかりがあったのではないか。――インドネシア人たち はオランウータンは半人半獣であるとか、″インドのサチュロス″であるとか、生きたピテカン トロプスであるとか白人たちに信じさせたり、さんざん迷わせたりした。オランペンデクだの、 オランパンダだのという類似した名前が、その混乱をよけい助長した。テングザルのことをオラ
ンダ人(オランブランダ)とマレー人はふざけて呼び、オランダ人の鼻の高いことをからかって、 彼らをおこらせたりひそかに溜飲を下げたりした。スマトラ産のルトン類、あるいはラングール
類のサルに、高い人造の鼻をつけたりして細工したニセもので、白人を欺し、一儲けした者もあ った。

 そういったような、インドネシア人たちの気質。それが昔から変わらなかったとすれば、昔は 同じ冗談やだまし文句で、中国人たちをからかったこともあったのではないか……? 「わしらはあのミワスを、酒を使って生けどりするだ。酔ったミワスはそばにおいてある、底に 黐(もち)を塗った靴を穿くとナ、ぬげねえから木に登れなくなって、わけなく生けどれるだよ」 などと!  中国古書に、「猩々は酒が好きなので、これを生けどるには、酒と二つ結び合わせて木につな いだ履を用意しておく。すると山中からあらわれた猩々は、その酒に酔い、その履を穿いて、倒 れたきり動けなくなり、捕われるのでアル」などと、まことしやかに書いてあるそうだが―― それはもののみごとに、インドネシア人に中国人が欺かれた結果ではなかろうか。

 ――インドネシア人がオランウータンを捕獲するのに、その住む木の下に毒性のある液体をお いておく。というのは、まんざらウソでもないらしい。  しかし、野生動物が酒を飲むはずもなければ、木の下に置いてある靴(履)を穿いてみるはず もないのである。これは、″サルは人まねをする″という俗説から出た、ただの駄ボラだと実吉氏は 断ずる。彼の子供のころ、面白い動物の生けどり法として、「口の小さいツボの中にエサを入れて 紐で木につなぎ、サルがツボの中に手をつっこんでエサを握ると、手がツボから抜けなくなって 生けどられてしまう」という話も、アトカタもない作り話だと彼は睨んでいる。 現代に入ってからは、ひょっとするとインドネシア人たちの冗談ばなしだったかも知れないこの話も、 「欧米からの情報」として日本へは伝わり、もうすっかり「われわれインドネシア人はオランウータン を酒に酔っぱらわせて生けどりにするんだ」という話になり……日本の少年冒険作家が、さもそれを 真実であるかのようにリアルに、かつユーモラスに小説の中に取りいれる例もあるにいたった、のでは ないか(南洋一郎『吼える密林』の中「ボルネオの猛獣と戦う」講談社)。
 二上洋一氏は南洋一郎の猛獣狩小説のほとんどが「洋一郎自身の体験でもなければ、全くの創造でも なかった。そこには、土台となった幾莫かの原書が存在し、その抄訳に過ぎなかった」(『少年小説の系譜』 カ影城)といっているから、″酒に酔わせて猩々を生捕る″という一件も、出どころをもつネタが、" 原書″ のどこかにあったのではないか。

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