天狗
――カンラカンラと高笑いする唯一の神――
林英樹訳の韓国の野史、『三国遺事』(三一書房)の恵恭王の条。
そこには大暦二年(七六七年)に、「天狗が東楼に落ちた」と書いてある。「頭が瓮(かめ)のようであり、尾は三尺くらいで、色ははげしく燃える火のようであり、天地がまた振動した」。
これだけ読んでも、その「天狗」が流れ星であり、つまり隕石が落下した記録であることがわからない。天狗という天体が地上に落下した例は、正史の『三国史記』の上巻だけで四回も記録されているのだが、それにはいずれも「天狗星(てんこうせい)が落ちた」と書いてあるからである。
星としての天狗は、テングでなくテンク、あるいはテンコウと日本でも読み、怪物としてのテングと区別しなければならないのであった。辞書その他には、「天狗」(てんこう)は流星の称なりとあり、また「落下のさい音を発する流
星」と説明がある。もし特定の一個もしくは何個かの星なら、こうしばしば落下しては、とっくになくなってしまうはずだから、「音を立てて落ちてくる流星」の一般称としておく方がいい。しょっちゅう落ちる星だから、二八宿にも入っていないし、『水滸伝』にも入っていない。それなら中国、韓国で天狗といえば星のことか、と合点していると、――『西遊記』五九回には、三蔵法師と悟空の一行が、火焔山の猛火に阻まれ、その火を消す芭蕉扇を、翠雲山の羅刹女から借り出そうとして失敗し、わいわい言いあっていると、そこへお斎食(とき)をもたらしてやって来たのが火焔山の土地神(うぶすながみ)であった。そして、――「うしろに従うのは、あわ飯を盛った鋼の鉢を頭にのせた一匹の天狗」(太田辰夫・鳥居久靖訳)。
江戸時代に『西遊記』の抄訳を出した人たちのうち、この部分を訳した岳亭丘山は、おそらく「天狗ともあろう者が、たかが土地神のお供をして、アワ飯を頭にのせて運ぶということがあるものか」と思ったらしく、
――此時一人の老人、独の小的(こもの)に斎(とき)をもたらせ来り……と書きおろして、天狗という名は省いてしまっている(『絵本西遊記』有朋掌。)
それにしても、天狗が『西遊記』に登場しているとは、たいていの人が気がついていないのではあるまいか。もとよりこの天狗は鼻がどのくらい高かったか、どんなナリをしていたのか、何の描写もないし、せりふもない。たしかに″独の小的″でもつとまる端役である。中国では天狗はそんなハシタ神なのだろうか。たしかに『山海経』にも天狗というものが出てはいるのだが、「獣あり、その状狸の如く、首は白く、名は天狗、その声は榴榴(ろうろう)のよう、凶を防ぐによろし」(高馬三良訳)とあるだけで、あの高姿勢で、威厳たっぷりの日本の天狗とは似ても似つかない。
その天狗が『西遊記』では獣を脱し、立って歩いて土地神に従うだけには進化した。それが来日して、さらに進化発展したのか。どうもちがうらしい。『今昔物語』にインド産の天狗が中国を経て日本へやって来る話がある。しかし中国にそれと似た話はない。インドでガルーダを人間として宗教画に描くときは、鼻がクチバシ状にとがって、伸びていて、翼もあるのでカラス天狗に似て来るが、それとこれを関係づけて、天狗の起源を考えている″天狗
研究家″もある。つまり、天狗の原産地はインド。天空を飛び神通力を駆使する霊鳥ガルーダ(天龍八部衆の一つ迦楼羅)は天狗の先祖。それを人間化して描いたものが、わが国に伝わってカラス天狗となった――と推理するわけである。
明治のオバケ博士として名高い井上円了はその著『天狗論』の中で、日本中の天狗が僧正天狗から木ッ端天狗まで消滅してしまいそうな抹殺論を展開した。昭和五十七年まで生きておられた天狗学の第一人者知切光歳氏はそれを要約して、――これまでの天狗の所業の殆どが、偽怪、誤怪、仮怪の三つの鋳型に嵌めこまれて、わずかに天狗は落雷の際、旋風に吹きあげられた雷獣か、南方の先住民の山男だろうと片付けられ、天狗は全く地を払った形である‥…(『天狗考』涛書房)。といっている。しかもそのわずかに井上円了の認めた「雷獣」さえ、今ではテンのことだとされていて、テンは「落雷と共に落ちてくる」というのだが、いっこうそんなありさまを実際に見た生態観察者はないのだ。落雷は自然現象であって、その場所にテンがいあわせたのでない限り、飛びだしたり落っこちてくることは考えられない。そんな千万が一にもなさそうな偶然が、そう何べんも昔の人の目にふれるだろうか?また雷鳴や稲妻だったら、彼らは馴れているから飛び出したりはしない。ただ……テン以外のものが、自分のすぐそばに雷が落ちて、仰天して飛びだしたのを、それこそ千万に一つのチャンスで見た人があったとすると――井上が「最初の頃落ちた雷獣が、たまたま狗(いぬ)に似ていたから天の狗と名づけたのであろう」という部分だけは、天狗の「名前の由来」として、うなずけないこともない。
インドの迦楼羅(金翅鳥王・ガルーダ)が日本のカラス天狗の「模範」であることは、観音廿八部衆や神仏霊像図彙を見れば明らかなのは、これまた現代の生ける天狗の一人だったともいえる南方熊楠であった。南方熊楠はまた、例のインドの女妖ダーキニーの像を、日本流に改変したのが、飯綱三郎系の天狗像であるとの説も明快、かつ詳細に主張している。
井上円了の「南方の先住民の山男」説は、柳田国男もその「天狗の話」の中で主張するところである。だが、昔はそのような山男が日本の山々にいたであろうが(今でも――? かのヒバゴンはそれであろう。だから今でも″山男″はいるという見方もある)、そのような威厳のないオンボロな人間を、天狗と見あやまったり、妄信したりするだろうか。それがはるか昔なら――修験道の成立以前に、「役行者(えんのぎょうじゃ)に影響を与えた彦山仏道の始祖といわれる山人・忍辱上人」の例をあげた藤沢衛彦がいっていることだが、――この忍辱のように、日本には山神に仕えた山人が諸国にいたらしく、それは山伏以前の一種の宗教者で、山中に苦行をつむ者として、仙人視されていた。これに山の精霊を仮託して神格化されたのが、鼻の高い赭顔(しゃがん)の人間型の天狗で、がんらい霊地に棲息して神通力を持つ怪物視されたものであろう(『図説日本民俗学全集・民間信仰・妖怪編』あかね書房)。というあたりが、天狗の由来についての、もっとも穏当な見解であろう。私は日本の神々の中では天狗が好きである。そして柳田国男は動物学にだけは暗いところがあるし、次の天狗の性格についての意見にも、天狗が武士的であったということに対しては、知切光歳氏も「果してそうであったろうか」と疑問を呈しているのだが、それでもなおかつこの意見に賛成なのだ。
日く、――元来天狗というものは神の中の武人であります。中世以来の天狗は殆ど武士道の精粋を発揮して居る。……即ち第一には清浄を愛する風である。第二には執着が強いことである、第三には復讐を好む風である、第四には仁陜の気質である。儒教で染返さぬ武士道はつまりこれである。これ等の道徳が中庸に止まれば武士道で、極端に走れば即ち天狗道である。殊に高慢剛腹の風というものは、今日でも「あの人は天狗だ」などと、諺になって都会にも行われて居る(『妖怪談義』修道社)。
大乱を好み、日本の神格の中でただひとり哄然と「高笑い」をし、鼻高々と大高慢をなし、少年を愛し、思うがままにふるまう天狗のイメージは、ウジウジした気風の多くなった今の時代には、こよなく痛快ではないか。