TOPIC1-1.アジア地域の戦争と紛争

3. パレスチナ問題
 
国土とその歴史
 

パレスチナとは地中海東岸のレバノン・シリア・ヨルダン・エジプトに囲まれた細長い一帯のことをいいます。
パレスチナの由来は、紀元前12世紀頃に住みつきユダヤ人と対立したセム系ぺリシテ人の国家であるフィリステアだと伝えられています。

パレスチナは、第一次世界大戦が終了すると国際連盟の委任統治下になりました。
英国が信託統治することでパレスチナ問題の解決を後回しにしたのです。一方、欧州では、第二次世界大戦の終了までに合計500万人ものユダヤ人がナチズムによる迫害によって犠牲となりました。
1947年、英国はパレスチナの信託統治の放棄を宣言します。同年11月、国連はユダヤ人の国家樹立を正式に決定しました。そして 1948年5月14日、イスラエルは独立を宣言し、首相にベングリオンが就任しました。
時を同じくして、エジプト・イラク・シリア・ヨルダン・レバノンなどの周辺アラブ諸国がイスラエルを攻撃し、激しい戦闘となりました。これが第1次中東戦争です。 この戦争の過程でパレスチナから約70万人の難民がヨルダン・レバノンなどの周辺国に脱出し、パレスチナ問題が生まれたのです。

その後、三度に渡って中東戦争が起こりました。そして、中東戦争の結果、新たなパレスチナ難民が生まれました。 また、パレスチナ解放機構(PLO)は、ヨルダン川西岸などの活動拠点を失いました。そして、1969年、ゲリラ集団ファタハを率いるヤセル・アラファトがPLOの議長となり主導権を握り、ハイジャックなどの過激な行動が目立つようになってきました。
1987年、イスラエル占領下のガザ地区で発生した交通事故をきっかけに、パレスチナ人によるイスラエルへの抗議行動は自然と広がり、過激化していきました。
1992年、イスラエルのラビン政権が秘密交渉をPLO側と行った結果、1993年9月に両者の相互承認とパレスチナ暫定自治の内容を定めた共同宣言調印に至りました。しかし、1994年にパレスチナ自治が始まった後も、パレスチナ人のイスラム教原理主義組織「ハマス」による自爆テロが続いており不穏な情勢が続いています。

1995年11月には極右ユダヤ人青年によってイスラエルのラビン首相が暗殺されました。これに伴い1996年に行われたイスラエル首相公選では、最大右派政党リクード党のネタニヤフ首相が左派労働党党首ペレス氏に勝利しました。 ネタニヤフ政権下では和平交渉への動きが中断され、イスラエルとアラブ諸国との関係は冷え込んでしまいました。

 
現在の情勢
 

1999年5月のイスラエル首相公選において、ラビン元首相の後継者で和平推進派のバラク氏が首相に就任し、パレスチナ自治政府との難題である和平交渉が進められましたが、2001年2月に行われたイスラエル首相公選において、リクード党の党首で「戦争屋」と言われるシャロン氏がバラク首相を破りイスラエル首相に就任しました。
シャロン氏の当選により和平への道のりは長く険しいものとなるかも知れません。周辺アラブ国からは、最悪の場合、戦争に発展しかねないとの声が上がっており、パレスチナ問題はたいへん緊迫した情勢が当分続きそうです。



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