日本の競馬の歴史

文久2(1862)

 わが国に、いわゆる「洋式競馬」が生まれたのは、文久2(1862)春、
横浜
(現在の中区)で居留外国人によって行われた競馬が最初とされています。
 この「洋式競馬」こそ、現在の日本の競馬のいわば原形であり、
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世紀以上も経た今日の競馬は諸先覚者の努力とファンの方々のご支援によって築きあげられたものといえます。



幕末の横浜競馬

明治3(1870)

 さて、日本人による「洋式競馬」はどうでしょう。
 横浜の競馬を模倣したものが、早くも明治
3(1870)にすでに現れています。
東京九段の招魂社
(後の靖国神社)で行われたものですが、これはまた同神社例大祭の"奉納" がその目的でした。
 その後明治
10(1877)には三田育種場で、また同12年新宿の陸軍戸山学校、同17年上野不忍池畔で行われていますが、いずれも長続きはしませんでした。
 一方、明治維新後、西欧から新しい畜産学と技術が移入され、同時に日本馬の資質改良の目的で、米・英・仏などの諸国からさまざまな種類の
馬が輸入されました。特に、明治2728年の日清戦争およびその後の北清事変などで、日本産馬が欧米諸国産の馬とくらべて馬格、能力ともに劣っていることが明らかとなったため、その後は欧米のレベルに近づけるための施策が、さらに精力的に計画されることになります。

 その方策として、「近代式競馬」の施行が最も効果的だとする主張が台頭してきました。政府部内には、賭け事について一部反論もありましたが、結局明治3812月、馬券発売黙許の措置を講じました。これにより、まず社団法人東京競馬会が認可を受けて、明治391124日を初日とし、翌25日および121日、2日の合計4日間、池上本門寺近くに新設された競馬場で、日本人による最初の馬券発売を伴った競馬を開催したわけです。

 こうして日本中が近代競馬誕生と同時にたちまちブームに沸きましたが、じつはこのブーム、去るのもまた早かったのです。馬券に熱中するあまり、家を傾ける者などがいたり、また、施行者の側にも不慣れによる不手際が生じるなどしたため、政府も態度を変えざるを得なくなりました。明治41年、政府はついに馬券発売の禁止を決定、たまたま公布されたばかりの新刑法の「賭博及ヒ富籤ニ関スル罪」8条項を適用することになり、政府黙許によって始められた馬券発売は、わずか2年たらずの短命に終わりました。しかし、政府は競馬の開催そのものを否定したわけではありませんでした。翌年11月には、馬券を伴わない競馬の開催を推進するために、施設の維持管理や賞金等に対して補助金を支出することとし、それに伴い既存の15競馬施行団体をそれぞれ改組合併させて、全国で11競馬倶楽部に限定して再発足させました。そして、入場者激減、賞金の減額など、きわめて困難な状況にもかかわらず、「馬券を売らない競馬」は、それでも以後14年もの長期間にわたり続行されました。

大正12(1923)

 この間にも、馬券発売の再認可を願う人々の声は、競馬施行者を中心に、生産者や馬主の各方面から高まっていき、同時に国産馬の改良の実を早急にあげるためには、馬券発売を法的に認めることが最上の策であるとする国の考えも熟し、競馬法制定への動きは急速にもりあがりました。そして、ついに大正12(1923)、関係者念願の競馬法の公布が実現したのです。

 同法に基づき、札幌・函館・福島・新潟・中山・東京・日本レース(横浜)・京都・阪神・小倉・宮崎の11競馬倶楽部が馬券発売を伴う競馬の開催を認められ、これらのいわゆる「公認競馬」は、関東大震災や世界的恐慌に見舞われながらも、以後順調に成長していき、昭和6年に複勝式勝馬投票券発売開始、昭和7年には日本ダービー(東京)が創設されるなど、確固とした基盤を築くほどになりました。しかし、競馬の事業規模が拡大していくにつれて、11倶楽部それぞれ独自の施行形態による不統一、非能率が随所に目立ってきました。また一方、政府内部でも、11倶楽部を統一して1団体による施行形態に改め、業務の能率化を図るとともに、収益の一部を国の歳入財源に充てようとする発想が生まれてきました。

昭和11(1936)

 そして、競馬法の大改正が昭和11(1936)に行われ、全国の11競馬倶楽部は、翌12年すべて解散、その全権利義務を含めて合併、日本競馬会が誕生しました。馬の改良増殖、馬事思想の普及を図ることを目的とする法人としてその性格、権利、義務が詳細に定められ、また、競馬施行のための具体的な規定も、従来、各倶楽部が独自に制定していたものを一本化し、政府の許可制に改めるなどと決められました。その後まもなく、4歳クラシック競走の体系が確立し、昭和16年には、業績が戦前におけるピークに達しました。

 第二次世界大戦の末期、競馬は一時中止のやむなきにいたりましたが、終戦後、昭和21年には、まず東京・京都の両競馬場で、さらに翌22年には、上記の2場以外に中山競馬場など計4場で開催されています。ところが、当時のGHQ(連合国軍総司令部)の指 示により、日本競馬会は閉鎖の危機にさらされましたが、関係当局必死の努力により、辛くもそれを免れたものの昭和23年に解散となりました。そしてこの年、新しい競馬法が制定されました。条文の多くは、旧競馬法をそのまま継承したものでしたが、特に変わった点は、地方競馬を含めて、法律上わが国の競馬を体系化したことにあります。これによって、国営競馬(後の中央競馬)と地方競馬という、わが国の2つの競馬体系が定まることになったわけで        すが、前者は、日本競馬会の資産一切を引き継ぎ、農林省に競馬部を新設し、東京など3競馬事務所を設けて発足したものです。この時期に連勝式という新しい投票法の導入や場外勝馬投票券発売所施設の新設をはかり、新たな競馬体系を構築する動きがみられました。

 戦後の疲弊と混乱から立ち直り、安定した社会的状況のもとで、昭和27年、農林大臣の諮問機関として、競馬制度審議委員会が設置されました。同委員会は、当時問題となっていた民営移行論について審議を重ね、国営競馬は、その施行体を全国一体の特殊法人とすべき旨の答申を出し、政府は国営競馬の民間移管を決定しました。

昭和29(1954)

 本中央競馬会法が公布され、同法に基づいて、昭和29916日政府全額出資の特殊法人日本中央競馬会が設立され、「公認競馬」と通称されてきた「国営競馬」の一切を継承することになりました。以来、今日までの間、「中央競馬」は多くのファンの皆様にささえられ親しまれ、著しい成長をとげてきました。なお、国営時代の昭和28年に、中京競馬場が新たに仲間入りし、現在中央競馬を施行しているのは10競馬場となっています。


(http://www.jra.go.jp/nyumon/rekisi/rekisi_2.htmlより転載)