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項目(クリックするとその考察を見ることができます)
■鳥捕り〜他人の幸せのためならば〜
■青年〜幸せの取捨選択と相違〜
■蝎〜理想の姿〜
■第四次稿の結末
■第三次稿の結末
■他作品における「ほんとうの幸」
物語の後半になると、ジョバンニは"ほんとうの幸"とは何だろうと悩み、自分も"ほんとうの幸"を実現したいと考えるようになる。銀河鉄道の夜は単なる童話でなく読み方によって様々な謎と側面を持つが、ジョバンニが銀河鉄道を通じて様々な人と会い、"ほんとうの幸"をだんだん意識するようになるまでの心の成長を描いた話、と一度、意識して読んでみてもらいたい。"ほんとうの幸"は物語のとても重要なキーワードであるので、きちんと理解しておこう。"ほんとうの幸"に関連がある文章を抜き出して、もう一度じっくり読みながら考えてもらいたい。
■鳥捕り〜他人の幸せのためならば〜
第四次稿 第九章ジョバンニの切符(前)より
「もうじき鷲の停車場だよ。」カムパネルラが向う岸の、三つならんだ小さな青じろい三角標と地図とを見較べて云いました。
ジョバンニはなんだかわけもわからずににわかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまえてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたように横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考えていると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊こうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考えて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外で足をふんばってそらを見上げて鷺を捕る支度をしているのかと思って、急いでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすすきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。
「あの人どこへ行ったろう。」カムパネルラもぼんやりそう云っていました。
「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」
「ああ、僕もそう思っているよ。」
「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。
最初に"ほんとうの幸という言葉が文章中に出てくるのは、鳥捕りが突然姿を消した前後である。ジョバンニははじめは鳥捕りをばかにしていた。しかしこの場面で初めて、ジョバンニの"他人の幸せのためならば自分の体を使いたい"という気持ちが芽生えた。それは、いままで"ばか"だという鳥捕りの評価が、"気の毒"に変わった瞬間でもある。この時ジョバンニは、鳥捕りにとっての"ほんとうの幸"は、"自分の持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまう"、"自分があの光る天の川のかわらに経って百年つづけて立って鳥をとる"ことで実現できるのではないかと思い、"ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか"と聞こうとする。しかしそれを実現する前に鳥捕りは消えてしまい、ジョバンニは"大変つらい""変てこな気持ち"を味わう事になるのである。
■青年〜幸せの取捨選択と相違〜
第四次稿 第九章ジョバンニの切符(中)より
「いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、-略-船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。-略-ええボートはきっと助かったにちがいありません、何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく船からはなれていましたから。」
そこらから小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。)ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が祈るようにそう答えました。
次に、ジョバンニが"ほんとうの幸"について考えるのは、青年の話を聞いた時である。ジョバンニは青年の[かおる子とタダシを生かしたい][他人が死ぬのもつらい][かおる子とタダシに神にそむく行動をとらせられない][自分も神にそむく行動をとることができない]という4つの気持ちからどれかを捨てねばならない選択において、[かおる子とタダシを生かしたい]という気持ちを捨てざるを得なかった話を聞いた。そして、自分の求める"ほんとうの幸"を達成するには、必ず、幸の取捨選択を行わなければならないという事に気付く。しかし、取捨選択してしまった幸は"ほんとうの幸"ではありえない。つまり、"ほんとうの幸"を実現する事は不可能なのではないか、と悟るのだ。それまでのジョバンニは、自分のものを人に与える事でほんとうの幸は実現できると思っていた。しかし、ほんとうの幸を実現する上での矛盾点に気付き、自分はどうすればいいのかわからなくなってしまって"首を垂れて、すっかりふさぎ込んで"しまったのである。
ここで注意してもらいたいのは、ジョバンニの言う"さいわい"(赤字)と、青年や灯台守の言う"幸福"、"いちばんのさいわい"(青字)はちがうものであるという事だ。ジョバンニは、全ての人の幸が実現する事を"ほんとうの幸"だと思っているが、燈台守の言う"ほんとうの幸福"とは、個人の幸福について言っているものだ。青年の言う"いちばんのさいわい"も、"自分達の幸の中で一番良い幸"という意味である。つまり、ジョバンニの言う広い意味での幸と、青年達の言う幸は、まったく質の異なるものだ。同じく、第七章の北十字とプリオシン海岸の、カムパネルラが言う"いちばん幸"も、ジョバンニの"ほんとうの幸"とは異なるものである。(cf.第七章の考察)
■蝎〜理想の姿〜
第四次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より
「あれは何の火だろう。あんな赤く光る火は何を燃やせばできるんだろう。」ジョバンニが云いました。
「蝎の火だな。」カムパネルラがまた地図と首っ引きして答えました。
「あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ。」
「蝎の火ってなんだい。」ジョバンニがききました。
「蝎がやけて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお父さんから聴いたわ。」
「蝎って、虫だろう。」
「ええ、蝎は虫よ。だけどいい虫だわ。」
「蝎いい虫じゃないよ。僕博物館でアルコールにつけてあるの見た。尾にこんなかぎがあってそれで螫されると死ぬって先生が云ったよ。」
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。」
-略-
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
ジョバンニは途中、かおる子から蝎の火の話を聞く。蝎は自分が死にそうになった時に、自分のために犠牲になったものと、何の役にも立たなかった自分自身を自覚し、みんなの幸のために犠牲になりたいと望んだのである。この蝎の話は、ジョバンニの、「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」という言葉からも、蝎はジョバンニにとって理想の姿であることがわかる。そして、蝎の火の話を聞いた事により、ほんとうの幸を実現したいという考えは、カムパネルラと共にほんとうの幸をさがしにいこうという決意に変わる。しかし、カムパネルラは消えてしまい、現実世界に戻ったジョバンニは、カムパネルラが既に死んでしまっていた事を知る。
■第四次稿の結末
第四次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行ってお父さんの帰ることを知らせようと思うともう一目散に河原を街の方へ走りました。
この文は、第四次稿の銀河鉄道の夜を結ぶ最後の文章である。カムパネルラが死んだ事を知ったジョバンニは、"もういろいろなことで胸がいっぱい"になった。この"いろいろなこと"とは、カムパネラの事、銀河鉄道の事、ほんとうの幸のこと、などだろう。第四次稿では、銀河鉄道でのジョバンニとカムパネルラの会話以降、"ほんとうの幸"についての話は全く出てこない。しかし第三次稿の終わり方は、これとは全くちがったものである。
■第三次稿の結末
第三次稿 第九章ジョバンニの切符(後)より
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで、お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければいけない。天の川の中でたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘にたってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれからも何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」ジョバンニは力強く云ひました。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。
「博士ありがたう、おっかさん。すぐ乳をもって行きますよ。」
ジョバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まって何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気がするのでした。
琴の星がずうっと西の方へ移ってそしてまた蕈のやうに足をのばしてゐました。
これが第三次稿の終わり方だ。ジョバンニは"ほんとうの幸"の理想に燃え、"まっすぐに進"んで"ほんたうの幸福を求め"ると力強く言っている。そして、第四次稿の"もういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云えず"という状態とは違い、"何かいろいろのものが一ぺんにジョバンニの胸に集まって何とも云へずかなしいやうな新らしいやうな気"がしておっかさんの元へ走るのだ。第三次稿の結末がなぜ大幅に変わったのかは、賢治の"ほんとうの幸"に対する考え方の変化があるだろう。これについては、第三次稿と第四次稿の違いを参考にして欲しい。
■他作品における「ほんとうの幸」
宮沢賢治が求めた"ほんとうの幸"は、銀河鉄道の夜だけでなく、他の文章からも伺える。ここでは"ほんとうの幸"についての記述があるいくつかの文を抜き出した。ほんとうの幸を考える上で参考にしてもらいたい。そして是非、これらの原文も読んでみる事をお薦めする。
・みんなのほんたうの幸福を求めてなら私たちはこのまゝこのまっくらな海に封ぜられても悔いてはいけない
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第1巻『宗谷挽歌』」より
宗谷挽歌の本文を読みたい方は[こちら](宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス様のページへ飛びます)
・全く全くこの公園林の杉の黒い立派な緑、さはやかな匂い、夏のすゞしい陰、月光色の芝生がこれから何千人の人たちに本当のさいはひが何だかを教へるか数えられませんでした。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第6巻『虔十公園林』」より
虔十公園林の本文を読みたい方は[こちら](宮沢賢治の童話と詩 森羅情報サービス様のページへ飛びます)
・世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第10巻『農民芸術概論』」より
農民芸術概論の本文を読みたい方は[こちら](青空文庫のページへ飛びます)
参考:佐藤紘子著 論文 『銀河鉄道の研究』〜最終形における「ほんとうのさいはひ」とは何か〜