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**ソシュールの言語学 B そもそも、ラングにしたところで、どうして意味がそうなるかというのはわかりません。意味というのは文脈(コンテクスト)によって決まるからです。「おはよう」といっても、どこでどう使われるかで意味は変わります。朝使うか、夜使うか、学校で使うか、テレビ局で使うか、先生が言うのか、先生に言うのか。さまざまな文脈で意味が変わります。また、文脈を切り離しても、どうして、その意味が通じるのかということが、不思議です。これが言語の恣意性というものですね。呪術的というのもこのあたりです。どうして「ネコ」が「ネコ」なのかということです。ラングにしてもこれだけの「いいかげんさ」があるのですから、とてもパロールまでは手が回らないのです。 ソシュールは同じように、共時的な言葉を研究対象として、通時的言葉をはずします。共時的というのは、現在通用する言葉で、通時的というのは、歴史的というか、言葉の変化の話です。つまり、ひとつひとつの言葉の意味の変化は無視しようというのです。たとえば、「おはよう」が持つ意味は、文脈で変化するわけですから、「おはよう」の意味を通時的に考えるためには、社会や文化という文脈まで考えなければいけないわけです。こんなことが手に負えるわけがない。ですからソシュールは、まずは共時的、すなわち、現在だけを対象にしたのです。 けれど、ソシュールはパロールを軽視したとはいえません。順番として、まず片づけるべきラングを共時的に扱ったのであり、パロールを後回しにしたこと自体が、パロールの奥深さを物語っているといえるでしょう。これがソシュールの言語学ですね。 |