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徳川家康

徳川治紀(はるのり)の第三子。

兄の死で1829年に29歳で水戸藩(茨城県)の藩主となる。

藤田東湖(とうこ)らを用いて倹約をすすめたり、弘道館をたてて学問や武芸を奨励するなど藩の政治を改める事につとめた。

尊皇攘夷を強く唱え、鉄砲隊を作ったり藩内の寺院の鐘を改鋳して鉄砲を作ったりしたため、幕府から疑われ罰せられた事もあった。

後に許され、ペリーの来航によって困難になった幕府の政治に加わった事もあるが、

条約問題や将軍の後継ぎ問題などで大老井伊直弼と意見が合わず、再び水戸に閉じこもる水戸なった。

 

吉田松陰

吉田松蔭(1830〜59) 幕末の長州藩士で尊王論者。

22歳のときに藩主に従って江戸に行った際、佐久間象山(さくましょうざん)を知り、洋学や国学などを学びその門人となった。

西洋の学問への関心を強め、ペリーが来航したとき象山のすすめによりひそかに軍艦に乗って海外への密航を図ったが、

軍船を断られ幕府に自首した。その後郷里に帰り、いわゆる松下村塾を開いて子弟の教育にあたり、強烈な尊皇攘夷論を説いた。

その門人には、久坂玄瑞(くさかげんすい)・高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允等の人物が多くいた。

開国のとき、幕府が独断で通商を開いた事を憤慨し、老中を殺す計画を立てたが、

1858年の安政の大獄で捕らえられ、江戸に送られた翌年死刑に処せられた。

 

高杉晋作

高杉晋作(1839〜67)

幕府の長州藩主で尊王の志士。

吉田松蔭の松下村塾に学ぶ。1862年に外国の事情を調べるために上海にわたった。帰国してから尊王攘夷運動に活躍した。

下関海峡での外国船砲撃に参加した後、強力な軍隊を作ることを計画し、農民・町人や足軽などを集め、西洋式の訓練を施した。

これが奇兵隊を呼ばれる物で、長州征伐などで幕府を悩まし、討幕運動に大きい働きをした。

 

坂本竜馬

坂本竜馬(1835〜67)

土佐藩の下級武士で尊王の志士。

酒造業を営む商人の家に生まれた。江戸に出て千葉周作門下に剣を学び、また尊王攘夷論者となる。

やがて勝海舟門下に入り開明的な勝の影響を受けて、一時海軍・貿易に従事する。

1866年薩長連盟を実現させ、討幕運動にも活躍した。翌年、後藤象二郎と結んで、大政奉還論を唱えてその実現に尽くしたが、

同じ土佐藩出身の志士中岡慎太郎(坂本竜馬とともに薩長連盟に力を尽くした)とともに京都で幕吏に暗殺された。

志士の中では海外の事情にも明るく、新政権の樹立にもっとも開明的なプランを持っていた。

 

西郷隆盛

西郷隆盛(1827〜77)

薩摩藩の下級武士の家に生まれた。

藩主島津斉彬(なりあきら)に重く用いられ、幕府の政治を改めようとする運動に加わった。

安政の大獄の時幕府に追われ、斉彬が死んだ後藩主忠義やその父の久光に嫌われていたので冷たく扱われ奄美大島に流された。

後に許されてからは尊王攘夷運動に加わり、1866年には長州藩と薩長連合を結び、倒幕計画を進めた。

王政復古の後、東征大総監府参謀として戦争をせず江戸城の開城に成功した。

やがて参議・陸軍大将・近衛都督となり、廃藩置県に力を尽くしたり兵制や警察制度を整えたりする事に努めた。

後の征韓論に敗れ、鹿児島で私学校を建て青年の教育に当たった。

しかし、1877年反政府の人々におされ西南戦争を起こし、城山で自殺をし、最期を遂げた。

 

勝海舟

勝海舟(1823年〜99年)

幕末の家臣。旗本の家に生まれたが蘭学・兵学に通じ、幕府海軍の育成に尽くして咸臨丸で太平洋を横断した。

その思想は開明的で幕府主流とは折り合わなかったが、諸藩の多くの志士に影響を与え、

維新の影の存在として重要な人物であった。

 

大村益次郎

木村益次郎(1824年〜69年)

長州藩の出身で、はじめは村田蔵六といった。

明治維新のとき軍政家として活躍し、近代的な軍制度をはじめた。

はじめは医学を学んだが、後に西洋兵学に転向し戊辰戦争の時はその指導者となった。

1869年には兵部大輔という重要な職につき、統一的な近代軍隊を作ることを政府に申し出た。

その内容は、士族の特権を廃止し、廃刀令と徴兵令を唱え、フランス式の軍政を採用する事などにあった。

ところが保守派の反感をかい、京都で襲われて重症を負い、大阪で死んだ。

 

榎本武揚

榎本武揚(1836〜1908)

幕臣の子として江戸で生まれた。

はじめ洋学を学んだが、長崎に幕府の海軍伝習所ができたのでそこに入り海軍の軍事や航海の術を学んだ。

また、オランダに留学して兵制や法律などを学んだ。

帰国後は幕府の海軍の重要な職についたが江戸開城の時官軍へ軍艦を引き渡す事を拒否し、全艦隊6艦を率いて江戸を脱走した。

その後北海道に上陸して箱館・松前を占領し、箱館五稜郭を本拠地として官軍に抵抗したが1869年5月に降伏した。

この事件で罪を問われたのだが後に許され、新政府の役人となった。

1874年には特命全権大使としてロシアに行き、千島樺太交換条約を結んだ。

その後、海軍卿・逓信・文部・外務・農商務などの大臣に任ぜられた。

 

大久保利通

大久保利通(1830〜78)

薩摩藩の下級武士の出身である。

西郷隆盛らとともに藩主島津斉彬のもとで活躍して認められ、ついで島津久光の下で藩政の実権を握るようになり、

公武合体運動、幕府政治の改革や藩政の改革に力を尽くした。

その後は次第に武力で幕府を倒そうと考えるようになり、倒幕運動の中心人物として指導的な役割を果たした

(倒幕の密勅下付、王政復古、徳川慶喜追放など)。

新政府では参与・参議・大蔵卿・内務卿などを歴任してその中心人物となり、

版籍奉還廃藩置県地租改正・殖産興業などの重要な問題に関係してその功績は大きかった。

岩倉具視らと欧米を視察し、また、不平士族の反乱を抑えるなど次第に独裁的な権力を振るって中央政権をおしすすめたが、

1878年5月不平士族のために東京で暗殺された。

 

木戸孝允

木戸孝允(1833〜77)

西郷隆盛大久保利通らとともに維新の三傑といわれている長州(山口県)藩士。

吉田松蔭の松下村塾にはいり、さらに江戸に出て江戸川太郎左衛門から西洋の兵術を学んだ。

尊王攘夷運動に力を尽くし、1866年坂本竜馬の仲立ちで西郷隆盛と会い薩摩藩と長州が手を結ぶ事を決め、

討幕運動をおしすすめた。明治政府では重く用いられ参議となり、

五箇条の御誓文の草案を作ったり版籍奉還をすすめたり廃藩置県などの改革に努力した。

岩倉具視らとアメリカやヨーロッパ視察の一行に加わり、帰国後、西郷隆盛らの征韓論に反対、

ついで大久保利通の台湾出兵にも反対した。

また同時に憲法制定についての意見書を出し立憲政治の形を早く整える事の必要を唱えた。

大久保利通の独裁政治には反対したが、自由民権運動を抑え、薩摩・長州を中心とする明治政府を動かした人物である。

 

本木昌造

本木昌造(1824〜75)

長崎で生まれた。オランダ語通訳の仕事のかたわら、ヨーロッパの工芸に興味を持ち、

日本で始めて鉛製の活字を作る事に成功した。

のち造船術を学んで同所の主任となったが辞任しもっぱら活字印刷の技術の研究を進め、

大阪・東京に活字製造所や印刷工場を建設して出版事業に努めた。