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安政の大獄・桜田門外の変

井伊直弼が独断で日米修好通商条約を結んだ事は反対派の反感を強め、また、朝廷を尊ぼうとする尊王派の志士を刺激した。

直弼はこれらの人々を抑えるためにまず攘夷派の徳川家斉や越前の松平慶永を罰し、

さらに尊王の志士である吉田松蔭・橋本左内(はしもとさない)・瀬三樹三郎(らいみきさぶろう)らを処刑にした。

これを安政の大獄という。(1858〜59,安政5〜6)

しかしこれは反対派をますます刺激し、ついに1860年直弼は江戸城の桜田門外で水戸浪士のために暗殺された。

これを桜田門外の変という。

王政復古

大政奉還後の幕府の処分については合議制によって決定する事となっていた。

しかし、岩倉具視や薩摩・長州の強力に倒幕を主張する一派は、1867年12月9月クーデターを行った。

自分らの一派だけで協議し、いわゆる王政復古の大号令を発して天皇を中心とする新しい政府の樹立を行った。

新政府は新しく総裁・議定・参与などを設け天皇自ら政治を取る事を明らかにした。

主な職には皇族や公家、藩主、それに倒幕のために力を尽くした下級武士が加わった。

それとともに慶喜に対しては、官位の辞退と領地の返上を命じたので、旧幕府側は強く反対し、政情はいよいよ不安定となった。

大塩平八郎の乱

将軍家斉の末年、天保年間に入ると東北地方をはじめとして全国的な飢饉が起こった。

特に1833年の東北地方一帯の飢饉をはじめ、1836年の関東・東北地方の飢饉は目をおおうほどの惨状であった。

このため物価は上昇して百姓一揆・打ちこわしが盛んに起こった。江戸には農村からの流出者行き倒れが数を増し、全国の経済の中心である大阪でも

1日170人も餓死する者が出る有様であった。幕府や藩では、これらの貧民を救うだけのゆとりもなく、

また対策を立てようともしなかったのでこの情勢を見た大阪町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎は、町民を救うため

非常米の蔵を開く事を奉行所に申し出たが許されなかったので、自分の書物を売って米にかえ、それを貧民に与えたりしたが

ついに1837年貧民救済を幕府に迫るため、同志の人々とともに乱を起こし大商人の多い大阪の船場などの要所を襲ったが、たちまち鎮圧され失敗に終わった。

大塩平八郎は潜伏1ヶ月ののち発見され自殺した。 大塩平八郎の乱は彼が元大阪町奉行所の役人であった事と、有名な学者であった事、

しかも乱が幕府の直轄地の大阪で起こった事などで幕府や諸般に与えた影響は非常に大きかった。

 

外国船打ち払い令

先のフェートン号事件の長崎への侵入などで、イギリス船の出没に気を使っていた幕府は、

1825年に外国船の打ち払い令を出して、清とオランダ以外の外国船は全て理由にかかわらず撃退する事を命じた。

 

学制

1872年に発布された学制令は次のような宣言文(学業奨励に関するおふれ)が出された。

「人々自ら身を立て、それぞれの仕事に励んで生活してゆくのは、身をおさめ、知識を広め、

技術に長ずるによるのであるが、そのためには学問をしなければならない。…学問は身を立てるものとなるので…これからは、

一般の人民(華士族農工商および婦女子)は必ず村には不学の家がなく、家には不学の人のないようにしたい。

人の父兄たるものはこのことをよく知って愛育の情をあつくして学問に従うふうにしなければならない…」

学制の最初の計画では大学校・中学校・小学校の数を決めて作ろうとしたが、

小学校では月50銭の授業料を取ったので農民には思い負担となり計画は進まなかった。

 

五箇条のご誓文

1868年3月14日京都御所内の紫宸殿(ししんでん)で、天皇だけが神に誓うという古代天王星のしきたりにならって新政府の大方針が発表された。

これが五箇条のご誓文である。この誓文の案は坂本竜馬と親しかった越前藩(福井県)の由利公正(ゆりきみまさ)が作ったもので、

これを土佐藩(高知県)の福岡孝弟(たかちか)が書き直し、最後に木戸孝允が筆を加えた。

はじめは「列侯(れっこう)会議ヲ興シ…」とあったが「広ク会議ヲ興シ…」と改められ、列侯(藩主)だけでなく、

藩士や民衆を天皇の下にひきつけようとした。民衆に対してでなく、天地神明に誓った点は、フランスやアメリカの人権宣言と異なっていた。

しかし、この五箇条のご誓文が発表された同じ日に同じ政府によって、人民に対しても5つの禁止令が出された(五榜の掲示)。

それには「政党を組んで強訴する事と、相談をして村を去る事、キリスト教を信ずる事」などを

厳禁する旧幕府時代と同じ考えが新政府の太政官の名で出された。

「五箇条のご誓文」

一、 広ク会議ヲ興シ万機口論ニ決スヘシ

一、 上下(しょうか)心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、 官武一途庶民(かんむいっとしょみん)ニ至ル迄、各其志(おのおのそのこころざし)ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサラシメンコトヲ要ス

一、 旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破り、天地ノ公道ニ基クヘシ

一、 知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ

〔解説〕主な内容は

1, 会議によって政治を行う。

2, 国民が一致協力して新しい国家を作り、社会の発展をはかって経済を充実する。

3, 人民が好む道を進む。

4, 旧習を改める。

5, 世界の文化を取り入れる。 などである。

下関事件

自由民権運動の広まりを抑える為に言論や集会を取り締まっていたが、

北海道開拓使官有物払い下げ事件が起こり、政府攻撃が激しくなった。

政府は国会開設の時期を早く国民に知らせたほうがよいと考え、1881年に10年後の1890年に開設する事を約束した。

この詔勅を要約すると 「国を立てる方針は、国によって異なっている。非常の事業はそう軽々しくすべきものでない。

…まさに明治23年を期し、国会を開き朕(天皇の事)の初めからの考えていた事業を成し遂げたいと思う」 となる。

北海道開拓使官有物払い下げ事件

自由民権運動が国会開設を要求する運動へと発展してくると、政府内部でも参議である大隈重信は、

国会をすぐに開くべきであると主張するようになって薩長派の代表である伊藤博文と対立した。

このような時、1881年北海道開拓使長官の黒田清隆が、開拓使所有の官有物を同じ薩摩出身の五代友厚らの関西貿易商社に

不当に安い価格で払い下げしようとして問題を起こし、そのために政府を非難する声が高まる事になった。

これが北海道開拓使官有物払い下げ事件である。

薩長同盟

薩摩藩にも長州藩にも、幕府を倒し開国しようという共通の立場が生まれてきた。

これをみた土佐藩(高知県)の坂本竜馬・中岡慎太郎らは、

薩長2版の仲立ちとなって1866年のはじめに軍事同盟を結び、互いに協力して幕府を倒す事を約束させた。

幕府は長州や薩摩の討幕運動に気づかず、なおもこれを圧迫する態度を取って1866年2回目の長州征伐を行った。

しかし、幕府軍は軍備を整えて迎え撃った長州軍のために連戦敗退したので、将軍家茂の急死を理由に戦いを中止したが、

かえって幕府の無力さをさらけ出す結果となった。 また、この年の末には公武合体の意見をもっていた孝明天皇が急死し、

明治天皇が後を継いだので、朝廷の中にも倒幕の勢力が台頭してきた。

こうして、薩摩・長州2藩の連合を中心に、長州の公家を巻き込んで武力倒幕の勢力がおしすすめられていった。

下関事件

イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4国連合艦隊が下関を砲撃した事件で馬関戦(ばかんせん)とも言う。

1863年5月10日以後、長州藩は攘夷を決行してもよいとの許しを得ていたので、下関海峡を通行する外国船に攻撃を加えた。

4ヶ国は1864年6月幕府に対して下関海峡の通交の自由と賠償金を要求したが、

幕府にその実力もなく、長州藩はこれを拒絶したので軍艦17隻・兵5014人をもって下関を攻撃した。

この時イギリスに留学していた長州藩の伊藤博文らが帰国し、上位の不利を説いたが聞き入れられなかった。

4国の連合軍は、陸上隊を上陸させて3日間で全部の大砲を占領した。

長州藩は講和を申し出て、海峡の通交の自由・賠償金の支払い、砲台の新築・改修をしない事などを約束して講和が成立した。

この事件で、欧米諸国の力の強さを悟った長州藩は、攘夷の愚かな事を知り、

薩英戦争後の薩摩と同じく、イギリスに接近するようになった。

西南戦争

明治十年に起きた西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱で、敗れた西郷は自殺し、以後武力の反乱は途絶えた。

〜西南戦争の経緯〜 明治十年二月二十五日西郷軍は熊本城にある鎮台を目指して進軍を開始しました。

篠原、桐野、村田の指揮する西郷軍は約一万五千人です。 (この時、鹿児島に五十年振りの大雪が降りました)

士族軍「ほう、南国鹿児島に五十年降りの大雪だ。」

士族軍「これは吉運の前触れだ。」

それから進軍中、九州各地から不平士族が集まり、熊本城を包囲するころにはその数が三万に膨れ上がりました。

士族軍「三万の我等の前に敵なしだ。」

士族軍「訳は無い。政府軍の兵は皆農民上がりだ。」

しかし、城に立てこもる政府軍は谷干城以下約四千人、心を合わせて防戦しました。

@谷干城

土佐藩(高知県)出身の政治家。西南戦争の時熊本鎮台司令官として西郷軍を食い止め善戦。

のちに第一次伊藤内閣の農商務となりました。

政府軍「食料はたっぷりあるんだ!」

政府軍「政府の援軍がくるまで頑張るのだ!」

熊本鎮台は西郷軍を二ヶ月もくぎ付けにしました。その間に政府軍が福岡に上陸し、熊本に迫りました。

士族軍「あっ、敵の援軍がきた!」

政府軍「西郷軍はあの田原坂でわが軍を迎え撃つつもりだ。」

士族軍「うぬっ、援軍を入れるな!」 政府軍「この田原坂を突破すれば熊本城は目の前だ!」

この田原坂の戦いは西南戦争で最大の激戦区の一つで、この坂をめぐり西郷軍と政府軍が

十七日間に渡って血みどろの戦いを続けました。

三月二十日、ついに援軍は田原坂を越えました。

士族軍「あっ、篠原さんがやられた!」

政府軍「やったぞ。熊本城の兵を救い出せ!」

四月二十日、ついに援軍は熊本城に入城しました。

政府軍「西郷軍を追い散らせ!」 政府軍「もうこっちのものだ!」

この間に新手の黒田中将の政府軍が長崎から八代に上陸し、西郷軍を後ろから攻めました。

士族軍「あっ、政府軍に挟み撃ちになったぞ!」

政府軍「これで西郷軍は鹿児島からの補給がたたれ、根無し部隊となったぞ!」

西郷軍は人吉(ひとよし)、都城(みやこのじょう)、宮崎、延岡と後退。その勢力は次第に弱まっていきました。

九月一日、悪戦苦闘の末、ついに数百名となった西郷軍はもとの鹿児島に落ち延び、城山へこもりました。

士族軍「ここを最後の決戦場としよう。」

政府軍「反乱の士族は残らず討て!」

士族軍「もはやこれまで。薩摩の隼人の最後を飾ろう!」

この城山の激戦で桐野利秋、村田新八(しんぱち)も戦死しました。

明治十年九月二十四日、西郷は自らの命を絶ち、維新最大の士族の反乱・西南戦争は終わりました。

この敗戦で武士の誇りを失った士族達は政府の組織だった軍隊の前に、もう武力で反抗しても駄目なのだと考えるようになりました。

大政奉還

幕府は長州征伐の失敗を取り返すために強硬な態度でのぞんだので、

薩長は朝廷の公家岩倉具視(ともみ)のはたらきかけもあって、いよいよ倒幕の軍を起こす事となった。

1867年10月には薩長2版に倒幕の密勅がくだった。 これに対し、土佐藩は幕府のために薩長連合の力をそらすため、

後藤象二郎(しょうじろう)らがはかって前土佐藩主の山内豊重(とよしげ)から

将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すようにすすめる建白を作った。

将軍慶喜は建白を受け入れ、倒幕の密勅のくだった日に朝廷に対して大政奉還を申し出た。そして、朝廷はこれを許した。

こうして平和のうちに大政は奉還され、ここに約265年間続いた江戸幕府は滅びた。

倒幕において農民や町人は結果的にその勢力となりえず、その中心となったのは雄藩の下級武士であった。

このため、明治政府は封建的な性格を残す事となった。

大日本帝国憲法の配布

1889年、2月11日明治天皇は、伊藤博文らが起草した憲法を時の内閣総理大臣黒田清隆に授けて発布させた。

これが大日本帝国憲法である。

ここに日本はこの憲法に基づいて政治を行う事になり、アジアで最初の立憲君主国が成立したのである。 大日本帝国憲法(抜粋)

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ

第八条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避ケル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

地租改正

明治政府は土地制度の改革によって今までの封建的なしきたりをなくし、新しい税制を作ろうとした。

1870年から始め、1873年に地租改正令を発布した。

7章からなっているが主な内容は、従来は収穫に応じて物納させたが、以後は土地の価格に応じて金納とした。

地租は地価の100分の3とし、地租の3分の1を村の入用として収める。

豊作凶作に関係なく税率は一定とする、こうして当時の政府歳入6500万円の90%あまりが農民から出す地租によっていた。

また、当時の小作地は全耕地の約3分の1で、この土地の所有権は全て地主にあり、

小作人は60%以上の小作力を地主に払っていた。そのため、大地主が現れる反面、小作農の苦しい生活は変わらなかった。

長州征伐

幕府は蛤御門の変をきっかけに、諸藩の兵を集め長州征伐に当たらせた。

ところがこの頃長州藩では下関での外国船を砲撃した仕返しに、

イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4国艦隊の砲撃を受けて(下関事件)苦しい状態にあった。

そのため藩は蛤御門の変の責任者を処分し、家老が切腹するなどの意を示して降伏した。

 

徴兵令

廃藩置県とともに今までの藩兵の制度も辞め、全国の城や兵器を政府に納めさせ、改めて一部の藩兵を4箇所の鎮台に集めた。

1872年には山県有朋(やまがたりとも)らの努力で徴兵に関する詔書が出され、翌年1月には徴兵令が発布された。

この徴兵令によって一応国民皆兵の原則が出来上がり、17歳〜40歳の男子は全て国民兵役の義務を負った。

これは三大義務の一つで、満20歳になると徴兵検査があり、合格すると3年間の兵役についた。

しかし大幅な免除規則の為、兵隊になった者のほとんどは平民であって、とくに農村の出身者が多かった。

そこで働き手を軍隊にとられる事を不満として農民が各地で暴動を起こした。これを血税運動という。

天保の改革

天保年間に入ると、将軍家斉の政治も行き詰まりを見せ、その上毎年凶年が続いて起こり

農村では百姓一揆、都市では打ちこわしが激しくなり深刻な社会不安が襲ってきた。このような時、大阪では大塩平八郎の乱が起こり、

幕府は大きな打撃を受けた。1841年家斉が没したので、12代将軍家慶は老中水野忠邦に思い切った政治改革をはからせた。これを天保の改革という。

天保の大飢饉→関連事項;『飢饉の多かったわけ』

江戸時代中期以降、

天候の不順・地震・火山の噴火などで天災やイナゴなどの病虫害のため広い地域で米や農作物が凶作となり、大量の餓死者や浮浪者を出す事が多くなった。

とくに江戸時代の半ば以降、享保(1932年)、天明(1782〜87年)、天保(1833年〜40年)の三大飢饉をはじめ、各地でしばしば発生した。

特に関東・東北地方で最も被害が激しかった。飢饉の激化は

1, 天災の予知や病害虫の対策が遅れていた事にもよるが、

2, 幕府・諸藩が財政難から農村に重税をかけ、

3, 農村では貧富の差が大きくなり、特に貧農の生活は行き詰まり、凶作への抵抗力も弱かった。また、

4, 藩単位の社会の仕組みから、飢饉になると自藩の米の確保に努め他への流出を差し止めた事などに原因している。

つまり、天災よりも社会の仕組み、政治のあり方が飢饉を発生させ、その被害を大きくしたと言える。

 

内角制度

1885年には皇室の強化と同時に内閣の強化も図られ、これまでの太政官制が廃止されて内閣制度が作られた。

これまでの太政官は親王など公家のような特別な身分のある者に限られていたが、

日本が近代国家として発展するには政府の役人が直接に政治を担当するのがよいと考えられていた。

当時の政府部内には、薩長の出身者で占められていたが、内閣制度が出来て内閣総理大臣が置かれると、

総理大臣は一人なので薩長両勢力のバランスを取るのに苦心した。

南総里見八犬伝

滝沢馬琴の作で98巻106冊から出来ている。1814年に初集を出し、1841年に完結した。

八房という名の犬から生まれた8人の侍が下総の里見家を建て直すという話であるが、中国の儒教精神と仏教の因果応報の精神を織り込んでいる。

中国の小説の影響を受けている。馬琴は執筆中に失明したので息子や妻に口述したのを筆記させ完結した。

 

日米修好通商条約

アメリカの総領事ハリスが下田にきてはやく通商条約を結ぶ事を求めた。

ちょうどその頃幕府では将軍の後継ぎの問題(13代将軍家定に子がなかったので、その後に水戸の徳川家昭の子の一橋慶喜を立てようとする改革派と

紀伊の徳川慶福を立てようとする主流派が対立していた)でうちわ争いがおこっており、また国内の攘夷論者もいてなかなか条約に調印するだけの自信もなく、

朝廷もこれを許さなかった。 1858年大老になった井伊直弼は、ついに朝廷の許しを得ないで条約に調印した。これが日米修好通商条約である。

この条約で新たに神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)を開港する(下田は閉じる)、通商は自由貿易とする、開港場に居留地を設けるなどを取り決めた。

ついでにイギルス・オランダ・ロシア・フランスとも同じような内容の条約を結んだ。これらをまとめて安政五カ国条約という

。また将軍の後継ぎには反対派を押し切って血統を重んじるという立場で紀伊の徳川慶福(後の家茂)をおした。

「日米修好通商条約」(要旨)

アメリカ合衆国と日本との間の通商条約で14条からなっている。

1, 神奈川・長崎・新潟・兵庫・箱館の5港を開港する。(神奈川港を開き6ヵ月後には下田の港を閉じる)

2, 通商は自由貿易とする。

3, 開港場に居留地を決め、一般外国人の国内旅行は禁じる。

4, 領事裁判権(治外法権)を認める。

5, アメリカ人の信教の自由を認める。

6, 関税については,相互に協定するが、日本が自主的に改正できない。

日米和親条約

ペリーが日本に来航した目的は日本の港をアメリカ商船の寄港地にしようということと、その頃北太平洋で盛んになったアメリカの捕鯨業の船が

燃料や食料の補給や避難の出来る港が欲しい為にあった。1854年1月ペリーは幕府の回答を求めて軍艦7隻をともない再び浦賀に来航した。

ペリーは日米開戦をちらつかせ、以前よりもいっそう強い態度に出た。幕府は断りきれずについにその要求の一部を入れて神奈川(横浜)で日米和親条約を結んだ。

この条約で下田と箱館(後の函館)の2港を開き、アメリカ船が燃料や水・食料などを買う事を許し、また下田に領事を置く事などを認めた。

これと同じような条約は続いてイギリス・ロシア・オランダ・フランスとの間にも結ばれた。

「日米和親条約」(要旨)

12条からなっている。神奈川条約とも言う。貿易は認められていなかったが、日本が鎖国の夢から覚めて開国のきっかけを作った条約である。

1, 日本とアメリカはそれぞれの間に永久の和親を結び、場所・人柄の差別をしない。

2, 下田・函館の両港で水・食料・石炭などアメリカの船に提供する。

3, 下田にはアメリカの領事を駐在させる。

版籍奉還

新政府ができてもなお地方には藩がそのまま残っていて、藩主(大名)は土地(版図)と人民(戸籍)とをおさめていた。

しかも藩によっては新政府に反対するものもあり、藩を廃止する事が必要になってきた。

そこで1869年大久保利通(薩摩藩)・木戸孝允(長州藩)・板垣退助(土佐藩)・大隈重信(肥前藩)らは

それぞれの薩摩・長州・土佐(高知県)・肥前(佐賀県)の藩主にはたらきかけてその版籍を天皇に奉還させた。

そのほかの藩主にもこれにならうものが多かった。

新政府はこれらの藩主を知藩事にし、中央政府から任命された地方官という事にした。

廃藩置県

版籍が奉還されて知藩事が任命されても藩主がそのまま知藩事となったので、

藩主と人民との間には今まで通りの主従関係が続き、新政府が中央主権の近代国家を作るのに障害となった。

しかし、当時の中央政府の力は弱く、その上凶作とそれに伴う農民一揆などで社会不安も去らなかった。

そこで木戸孝允大久保利通らは西郷隆盛や板垣退助を参議とし、

各藩の武力反抗に備え薩摩・長州・土佐の三藩より8000名の精兵を集めて御親兵を編成し

1871年7月に政府は廃藩置県令を出し、一挙に廃藩を断行した。この結果、知藩事はやめさせられ、

東京に移住を命じられたが華族として優遇され、代わりに中央政権から府知事・県令が派遣された。

こうして3府302件の府県のみとなり、年末には3府(東京・大阪・京都)72県となった。

旧藩兵は開放され、その武器は中央政府に納めた。

これによって政治上の封建制度は廃止され天皇中心の中央政権的な仕組みが完成した。

フェートン号事件

イギリス軍艦フェートン号が長崎に入港し、オランダ船員を捕らえ、日本に対して水・食料などを要求した事件。

当時オランダはナポレオンの支配下にあり、海外のオランダ領は、イギリスとフランスの奪い合い状態であった。

フェートン号が長崎にきたのも、オランダ船を捕まえる事が目的であった。日本は防備が不十分であったので、要求を受け入れた。

この事件で長崎奉行は切腹し、佐賀藩の藩主は幕府より罰せられ、家老は自殺した。

ペリー浦賀に来航

18世紀の後半、イギリスから独立したアメリカ合衆国はその後も国力の発展は目覚しく1848年にはメキシコ領のカルフォルニアを手にいれ、

そこの金山を開発してからはサンフランシスコを根拠地にして太平洋方面に乗り出すようになった。

この結果、西太平洋の要地を占める日本は自然とアメリカ人の注意を引くようになった。

1853年アメリカ合衆国東インド艦隊の司令官ペリーは、4隻の軍艦を率いて浦賀にやってきた。これを見た江戸幕府をはじめ江戸市民は

はじめてみる蒸気船にたいへん驚き、「黒船」と呼んで江戸市中は大混乱に陥った。 ペリーは大統領国書を提出して日本の開国を強く要求した。

そこで幕府はやむなく国書を受け取り、翌年に返答する事を約束したのでペリーは退去した。

 

戊辰戦争

戊辰の役とも言う。

大政奉還によって新しい政府が生まれたが、旧幕府の大名や武士の中には新政府に対して不満を持つ者が少なくなかった。

それが1868年はじめの鳥羽伏見の戦いとなって現れた。(旧幕府軍は1万5000人、薩長軍はその3分の1であった)

この戦争は旧幕府軍が慶喜をおしたて、薩摩藩の罪を問うと称し京都に入り、

鳥羽・伏見(今の京都市)に陣していた薩長軍との戦いであったが、旧幕府軍の敗北に終わった。

この後鳥羽・伏見の戦いで朝廷側は慶喜や旧幕府軍を錦の御旗に背いた朝敵だとし、直ちに追討の命令を出した。

朝廷では薩長2藩の軍を中心として官軍を作り、東海道・中山道・北陸道の三方向より江戸に迫った。

慶喜は手向かいしない決意を示したので、西郷隆盛勝海舟の談判で江戸城攻撃は中止となり、平和のうちに江戸城は開城された。(無血開城)

江戸開城後、慶喜の態度に不満を持っていた幕府の家臣の一部が上野(東京都)にたてこもって反抗した(彰義隊の乱)が

激戦の末、大村益次郎らに破られた。 さらに東北の幕府側の諸藩は会津藩(福島県)を中心として官軍に反抗した。(北越奥羽戦争)

官軍は米沢(福島県)・仙台藩を破った後、会津藩を降伏させた。

旧幕府の海軍副総裁であった榎本武揚は、江戸開城のとき海軍を率いて江戸から抜け出し、

箱館(函館)の五稜郭を本拠地として官軍に抗戦した(箱館五稜郭の戦い)が1869年に降伏した。

ここに全国は新政府の下に完全統一された。このおよそ1年半にわたる戦いを戊辰戦争という。

明六社

雑誌では明六社の「明六雑誌」など、欧米諸国の思想や学問を紹介し、日本の近代化を論ずるものが多かった。

また、学術雑誌も出るようになった。

モリソン号事件→+蛮社の獄

アメリカ船モリソン号が中国の港に救助されていた日本漂流者7名を乗せて浦賀にきた。

来航の目的はこの機会を利用して日本との貿易を行う事にあった。幕府は外国船打ち払い令によって撃退した。この事件に対し、

洋学者の高野長英・渡辺崋山らは幕府の鎖国対策や外国船打ち払い令を批判したので、厳しい処罰を受け、2人とも自殺した。

高野長英は『夢物語』、渡辺崋山は『慎機論』を書いたが、当時の洋学者は人心を惑わすと言う理由で多数の人が処罰された。

ここで、西洋から伝わった合理的な考え方に基づく政治批判は完全に押さえつけられてしまった。

 

横浜毎日新聞

幕末から維新にかけての頃、本木昌造(もときしょうぞう)が鉛活字による活版印刷をはじめ、新聞や雑誌が発行された。

日刊新聞では1870年に「横浜毎日新聞」がはじめて発刊され、

1872年「東京日日新聞」「郵便報知新聞」「日新真事紙」の創刊などに発展した。

この時期の新聞はいずれも古い風習の排除、欧米の文物制度の紹介など文明開化を唱えた。

しかしその後に自由民権運動が起こり、新聞にも反政府的な言論が現れ始めると、政府は法律を出して言論を圧迫するようになった。

 

蘭学事始 →関連人物;杉田玄白 杉田玄白(1733〜1817)

若狭(福井県)小浜藩の藩医杉田玄甫の子として江戸に生まれた。

幕府の医官西玄哲に科学を学び、さらにオランダ商館に出入りし、オランダの医学の優れた事を知った。

従来からの医学の説く人体内部の構造に疑問を持っていたが、山脇東洋が行った最初の人体解剖に強く刺激され、

同士の前野良沢や中川淳庵らとともにオランダの解剖書「ターヘル=アナトミア」の翻訳につとめ、苦心の末、1774年に「解体新書」を完成した。

晩年この翻訳事業を回想し、その苦心談を「蘭学事始」に書いている。

多くの門人を教育して西洋医学の道を開いた人といわれている。