J.S.Bach
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作曲家名:ヨハン・セバスチャン・バッハ 生没年:1685-1745 出身地:ドイツ アイゼナッハ 音楽の父と呼ばれている。 小さい頃から音楽好きであった。 |
↑バッハの肖像画
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バッハの銅像 バッハの墓碑(ライプチッヒ)の近くにあり たくさんの人に親しまれています。 |
<バッハの音楽とは・・・>
バッハは生涯の大半を教会音楽家として過ごした。しかし、彼の作品はオペラを除く当時のあらゆる形式を含んでいた。
ドイツ固有の音楽の上にイタリアやフランスの様式も取り入れ、バロック音楽の総合を成し遂げた。
当時バッハは作曲家としてではなく、オルガンの達人として知られていた。この頃は他人の曲を演奏する人は
芸術家として認められなかったので彼の作品はあまり演奏されなかった。
彼の死後も50年ほどの間その音楽は顧みられることはあまりなかった。
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンは少なからず彼の影響を受けているが、それは特殊な例外にすぎない。
1829年メンデルスゾーンの指揮により「マタイ受難曲」の復活演奏が行われた。このとき初めて、人々はバッハの
宗教音楽を直に体験し、その深い精神的意味に気づいた。その後、バッハへの関心は急速に高まり、1850年には
全作品の刊行を目的に「バッハ協会」が設立された。
<バッハってこんな人>
幼い頃両親を失い兄に引きとられ、その兄から音楽の教育を受けた。
子供の頃から勤勉で、夜に鍵のかかった戸棚から兄の楽譜を取り出し月の光で写譜をしていた。
彼は成績優秀で大学への進学もできたが経済的な余裕が無かったため就職の道を選んだ。
彼は弟子の教育にも熱心で、短い楽節の練習に飽きてしまった弟子のために練習用の楽節のつながった
小さな曲を書いてあげた。また、長男のために教育用の楽譜帳を5年もかけて完成させた。
妻のマグダレーナのために作った「クラヴィーア小曲集」も教育用に書かれたものであった。
音楽に関してはバッハは独学者であり、彼は常に他人から学ぼうとし努力を惜しまなかった。
彼は「なぜそれほど高い芸術を身に付けたのか」という質問に対し「私は一生懸命勉強した。誰でも私が勉強したほど
勉強すれば、私ぐらいになるだろう」と答えている。