年代

出来事

1685

3月21日、ドイツのアイゼナッハという町で、8人兄弟の末っ子として生まれた。

1692

教会のラテン語学校に入学する。

1700

教会附属のミカエル学校で、やはりルター派正統派の教育が行われていた。ここでバッハは、声は美しいが学費が払えない生徒15名ほどからなる合唱団に属し、修道院に寄宿するとともに、若干の生活費を受けるという生活を送ることになる。

1703

クラヴィーア曲「《カプリッチョ ホ長調》『ヨハン・クリストフ・バッハを賛えて』」(BWV993)を書いている。

1704

クラヴィーア曲「《カプリッチョ ホ長調》『ヨハン・クリストフ・バッハを賛えて』」(BWV993)を書いている

1706

この頃から本格的に作曲を行っており、オルガン曲が中心になっているが、中でも有名な 「トッカータとフーガ・ニ短調」(BWV565)がこの時期に作曲されており、前述のブクステフーデの影響を強く受けた事例とされている

1707

22歳になったバッハは、マリーア・バルバラという女性と結婚し、6人の子供に恵まれた。

1712

楽師長(宮廷楽団のコンサートマスター)に昇進。(コンサートマスターといっても今と違い指揮をする役割も持っており、加えて毎月1曲ずつカンタータを作曲するという義務も負っていた。)

1717

32歳の時、ケーテン公レオポルトのもとで、宮廷楽士になった。この頃、『ブランデンブルグ協奏曲』『無伴奏チェロ組曲』などがつくられた。ヴィルヘルム・エルンストはバッハにヴァイマールの宮廷での楽長を許さず、反対にバッハを拘禁するという挙に出たのである。1ヶ月足らずの拘禁生活の後漸く解任され、ケーテンに移ることができた。「ブランデンブルグ協奏曲」(BWV1046〜1051)が挙げられる。その他、2曲の「バイオリン協奏曲」(BWV1041,1042)、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」(BWV1043)がある。また、4曲ある「管弦楽組曲」のうち第1番(BWV1066)と第4番(BWV1069)がこの時期の作曲の可能性があるといわれている。

1719

35歳のとき、妻のマリーアは亡くなった。

1720

36歳のとき、21歳のアンナ・マグダレーナと再婚し、13人の子供をもうけ、バッハは、妻や子供のために教育のためのたくさん曲をつくった。「インヴェンションとシンフォニア」(BWV772〜801)と「平均率クラヴィーア曲集第1巻(BWV846〜869)に発展していく。この他に、クラヴィーア曲としては「フランス組曲」(BWV812〜817)等がこの時期に書かれている。「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽手帳」も家庭人としてのバッハ、教育者としてのバッハを知る上で貴重な資料であるとともに、それ自身聞くものの心を和ませる珠玉の作品となっている。
 「世俗カンタータ」として、現在も当時の形で伝わり、よく演奏されるものとしては、「結婚カンタータ」(BWV202)、「狩のカンタータ」(BWV208)が挙げられる。また、少し後のことにはなるが「コーヒーカンタータ」(BWV211)や「農民カンタータ」(BWV212)等、今もよく知られた曲が誕生することになる。

1722

38歳のとき、バッハはライプツィヒという町の教会のカントルになりました。この頃つくられた曲が、『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ』です。

1723

カントールへの就任が決定した。「サンクトゥス」(BWV238)と「マニフィカト」(BWV243a)がある。

1733

バッハは、「ロ短調ミサ曲」に発展する『キリエ』、『グローリア』をザクセンの新選定侯フリードリッヒ・アウグスト2世に献呈する。

1736

ザクセン侯宮廷作曲家となる。

1748

63歳のとき、フリードリッヒ大王から与えられた主題をその場でアレンジして、人々をたいへん驚かせました。後にこれが『音楽の捧物』となる。

1703

アルンシュタットの教会で高給のオルガニストに任命された。

1750

65歳でこの世を去る。

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