年代

主な出来事

1770 12月16日、ヨ−ハン・ヴァン・ベートーヴェン、マリア・マグダレ−ナの第二子としてボンで生まれる。

1773

3歳の時、祖父ルートヴィヒ(1712‐1773)他界。
1774 4歳の時、弟カスパール・アントン・カール誕生。
1775 5歳の時、祖母マリア・ヨゼファ他界。
1776 6歳の時に、父から音楽の手ほどきを受けたとされています。弟ニコラウス・ヨーハン誕生。
1777 7歳の時、ボンの下級学校ラテン語学科に入学。
1778 8歳になる年の3月26日初めて公開演奏会に出演、ピアノを演奏。
1779 9歳の時、歌手T,F,プファイファーにピアノを師事。
1780 10歳の時、宮廷ヴァイオリニストF.G.ロバンティーニにヴァイオリンとヴィオラを師事。
1781 11歳の時、宮廷オルガニストC.G.ネ−フェにピアノと作曲を師事。
1782 12歳の初めて作品を出版。 ドレスラ−の行進曲による9つの変奏曲作曲。

1783

13歳の時、本格的に作曲活動を開始。 3つのピアノソナタ「選帝侯ソナタ」作曲。

1784

14歳の時、宮廷オルガン奏者となる。

1785

15歳の時、宮廷オルガン奏者に就任する。この頃F.リースにヴァイオリンを師事。

1787

17歳になる年の3月25日頃、ウィーンに出発。4月7日ウィーン着。母が重体との報せを受け、4月20日にボンへと向かう。7月17日母マリア・ダグレーナ死去。

1788

18歳の時、ヴァルトシュタイン伯爵と出会い、ピアノを贈られる。

1789

19歳の時、ボン国民劇場管弦楽団でヴィオラ奏者を務める。

1792

22歳の時、勉強の為ウィーンへ旅立つ。ハイドンと出会い、師事する。父ヨーハン死去。

1793

23歳の時、シェンクに作曲を師事。

1794

24歳の時、アルブレヒツベルガ−に作曲を師事。シュパンツィヒにヴァイオリンを師事。 ピアノ三重奏曲op1-1、ピアノソナタ第1番作曲。

1795

25歳になる年の3月29〜31日、ブルグ劇場慈善音楽会でウィーン公開演奏会デビュー。自作のピアノ協奏曲や即興演奏を披露。 ピアノ三重奏曲op1-2、3、ピアノソナタ第2、3番、ピアノ協奏曲第1、2番作曲。

1796

26歳の時、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを旅する。 チェロソナタ第1、2番、6つのドイツ舞曲作曲。

1797

27歳の時、ピアノソナタ第4番作曲。

1798

28歳の時、大ヴァイオリニスト、クロイツェルと出会う。プラハを旅行する。 弦楽三重奏曲op9、ピアノソナタ第5〜7番、ヴァイオリンソナタ第1〜3番、ピアノソナタ第8番「悲愴」、9番を作曲。

1799

29歳の時、ブルンスヴィック伯爵令嬢テレ−ゼ、ジョセフィーネ姉妹にピアノを教える。 「君を思う」(ゲーテ)による歌曲と6つの変奏曲作曲。

1800

30歳の時、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第1番を演奏、指揮。カール・チェルニーにピアノを師事。 弦楽四重奏曲第1〜6番、交響曲第1番、ピアノソナタ第11番作曲。

1801

31歳の時、サリエリに師事。知人達に難聴を打ち明ける。 ヴァイオリンソナタ第4番、第5番「春」、ピアノソナタ第12番、13番、14番「月光」、15番「田園」、バレー音楽「プロメテウスの創造物」作曲。

1802

32歳になる年の5月から、ハイリゲンシュタットで静養。10月6日、10日「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。 ヴァイオリンソナタ第6〜8番op30、ピアノソナタ第16番、17番「テンペスト」、18番op31、7つのバガテルop33、交響曲第2番、6つの歌曲op48作曲。

1803

33歳の時、アン・デア・ウィーン劇場と契約。 ピアノ協奏曲第3番、ヴァイオリンソナタ第9番「クロイツェル」作曲。

1804

34歳の時、劇場との契約を解除される。ヨゼフィーネと恋に落ちる。 ピアノソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」、第22番、交響曲第3番「英雄」作曲。

1805

35歳の時、交響曲第3番初演。「レオノ−レ」(第一稿)の上演、失敗に終わる。 歌曲「希望によせて」op32、ピアノソナタ第23番「熱情」、歌劇「レオノ−レ」(第一稿)作曲。

1806

36歳の時、「レオノ−レ」(第2稿)上演、失敗に終わる。ヴァイオリン協奏曲初演。 ピアノ協奏曲第4番、弦楽四重奏曲第7〜9番「ラズモフスキー第1〜3番」、交響曲第4番、ヴァイオリン協奏曲、「レオノ−レ」(第二稿)作曲。

1807

37歳の時、ピアノ協奏曲第4番、交響曲第4番初演。 ピアノ協奏曲(原曲ヴァイオリン協奏曲)、序曲「コリオラン」、ミサ曲op86作曲。

1808

38歳の時、マリー・エルデーティ婦人方に寄居。交響曲第5,6番、「合唱幻想曲」初演。 交響曲第5番「運命」、第6番「田園」、合唱幻想曲作曲。

1809

39歳の時、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、弦楽四重奏曲第10番「ハープ」、6つの変奏曲op76、ピアノソナタ第24、25番作曲。

1810

40歳の時、テレ−ゼ・マルファッティに求婚するが断られる。 ピアノソナタ第26番「告別」、「エグモント序曲」、弦楽四重奏第11番作曲。

1811

41歳の時、ファルンハーゲン・フォン・エンゼ、ティートゥゲらと交際。 ピアノ三重奏曲op97作曲。

1812

42歳になる年の7月5日、テプリッツにて「不滅の恋人への手紙」を書く。 交響曲第7、8番ヴァイオリンソナタ第10番作曲。

1813

43歳の時、「ウェリントンの勝利」、交響曲第7番初演。 「ウェリントンの勝利」作曲。

1814

44歳の時、「ウェリントンの勝利」の所有権をめぐり、メルツェルと訴訟。「フィデリオ」(第3稿)初演。 「フィデリオ」(第3稿)、ピアノソナタ第27番作曲。

1815

45歳の時、11月15日弟カール死去。 歌曲「希望によせて」op94、チェロソナタ第4,5番、カンタータ「海と凪と成功した航海」、序曲「霊名祝日」作曲。

1816

46歳の時、ラズモフスキー邸弦楽四重奏団の解散。 歌曲「遥かなる恋人に」ピアノソナタ第28番作曲。

1817

47歳の時、ハイリゲンシュタットなどで静養。メルツェルと和解。聴覚の衰えを増す。 弦楽五重奏曲、弦楽五重奏のためのフーガ作曲。

1818

48歳の時、6つの民謡主題と変奏曲、ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィ−ア」作曲。

1820

50歳の時、ピアノソナタ第30番作曲。

1821

51歳の時、健康状態悪く、夏はウンターデーブリングで、秋はバーデンで静養。

1822

52歳の時、この頃よりシントラーが秘書を務める。 ピアノソナタ第31,32番、11のバガテル、序曲「献堂式」作曲。

1823

53歳の時、「フィデリオ」の上演が各地で大成功をおさめる。  ディアベッリのワルツによる33の変奏曲、「ミサ・ソレムニス」 作曲。

1824

54歳の時、「ミサ・ソレムニス」、交響曲第9番初演。 交響曲第9番、6つのバガテルop126、弦楽四重奏曲第12番作曲。

1825

55歳の時、4月に体調を崩す。ウィーン楽友協会名誉会員に選ばれる。弦楽四重奏曲第15番初演。 弦楽四重奏曲第13、15番作曲。

1826

56歳の時、激しい腹痛、視力の低下も。12月病状悪化、1回目の手術。弦楽四重奏曲第13番初演。 弦楽四重奏曲第14、16番、「大フーガ」作曲。

1827

57歳の時、1月、2回目の手術。2月、3,4回目の手術。3月26日5時45分死去。ヴェーリング墓地に埋葬される。

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