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末っ子として生まれたヨハン・セバスチャン・バッハは代々立派な音楽一家の子孫でした。彼も小さい頃からバイオリンを習い、親戚の弾くパイプオルガンに親しみながら育 ちました。彼が9歳の時、母エリーザベトが、そして10歳の時に父アンブロジウス が死去。その後、彼は一番上の兄クリストフの家に引き取られました。それから5年後、セバスチャンは兄の家を出て、聖ミヒャエル教会の付属学校に通いました。18歳の時、ワイマール宮廷のバイオリン奏者、アインシュタットの新教会のオルガニストになりました。20歳になったセバスチャンはリューベックに行きブクステフーデの演奏を聴いてとても感動し、「華やかで洗練されている。」と言いました。ある日、聖マリア教会で一人オルガンを弾いていると傍で聞いていたブクステフーデに後継者になって欲しいと頼まれました。後継者になるためには娘婿でなければなりません。しかし、当時セバスチャンにはマリーア・バルバラという恋人がいたため、この大きなチャンスを逃すことになりました。バルバラはセバスチャンの親戚にあたり、彼女も親を亡くし、おばさんの家で暮らしていました。そこでセバスチャンと知り合うようになったのです。バルバラはリューベックに行ったセバスチャンからの手紙を楽しみにしていました。リューベックに出掛けたて4ヶ月経ったある日、セバスチャンは突然バルバラの元を訪ね、「これは僕がリューベックで得たものだ。」と言って、オルガンを弾いて聞かせました。そして1年後、二人はめでたく結婚しました。結婚後、セバスチャンはミュールハウゼンの教会オルガニスト、ワイマールの宮廷楽師を経て、1717年、宮廷楽長に就任しました。「お前たちは先にケーテンに出発しなさい。父さんも後から行く、ケーテンでまた会おう。」そう言ってセバスチャンはドレスデンに行きました。セバスチャンは試演奏を頼まれていました。その演奏会での多くの人に演奏を褒められ中でもフレミング伯爵はあまりの名演奏にマルシャンとの競演を提案しました。しかし、演奏会当日マルシャンは急用か何かわかりませんが朝早くフランスへ立たれました。そして、セバスチャン一人の演奏となりました。マルシャンはいなくともそれは十分に素晴らしいものでした。その名演奏に聴き入った人々は「案外マルシャンは逃げ出したんじゃないか。」、「自分より15も年下のセバスチャンに負けて恥をかくのは嫌であったのだろう。」と口々に言いました。演奏会を無事に終えたセバスチャンはケーテンで家族と落ち合いました。そしていつものように息子フリーデマンにピアノを教え、娘カタリーナはそれに合わせて歌を歌いました。セバスチャンはフリーデマンに熱心にピアノを教え、「練習曲を作ったよ。これを弾いてごらん。」そう言われフリーデマンは譜面を手に取りました「父さん、これ難しすぎるよ。」その言葉に対しセバスチャンは「私には指が10本ついている。それじゃお前の手は・・・?やはり10本ついている。一体どこが違うと言うのか。」その言葉にフリーデマンは反論できず、仕方なく練習しました。 ある日、ケーテン宮廷での演奏会の途中、バルバラが倒れたそうだという知らせが入りました。そひて数日後、セバスチャンの妻バルバラは亡くなりました。子供たちが悲しみに暮れる中、セバスチャンは自分に言い聞かせるように言いました。「悲しむことはないんだ、母さんはイエス様のところに行ったのだから。」しかし、理解できない子供たちは「父さん、イエス様のところって遠いの?でもいつかは帰ってくるのでしょう?ねぇ、母さんはいつ帰ってくるの?」と言いました。セバスチャンはその言葉にやりきれなく思い子供たちを抱きしめました。
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