〜 マーティン・ルーサー・キング牧師が生きた時代 〜
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〜 公民権運動以前の黒人の地位 〜
一節 投票権、選挙権
南北戦争に敗れた南部の中でもサウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナは、発展から取り残されて、貧しく、教育程度も低かった。そして、奴隷制度から解放された黒人達へのリンチや差別が根強く残っていた。リンチで殺される黒人の数は1年に200人を超え、負傷者はその倍いたと言われている。
ホテル、レストラン、教会、学校、劇場等生活のあらゆる面でホワイトとカラードに分離されていた。その中で「白人市民会議」、「KKK」などの白人優越を主張する団体が各地で設立され、そのメンバーには知事、市長、議員、弁護士、実業家などが加わっていたといわれている。
二節 雇用差別
黒人の労働者は雇用に関しても困難に直面していた。1960年における職種別の黒人雇用率を挙げる。
家政婦54.3%
シェフ、コック24.9%
用務員・清掃員21.8%
車洗い23.0%
パン屋12.0%
自動車修理工11.3%
美容師12.7%
工学、法律、医学、建築、ジャーナリズムといった分野において黒人の率は低い。
技術者2.2%
エンジニア3.6%
弁護士1.3%
医師4.4%
歯科衛生士2.5%
建築家0.9%
編集者・記者3.8%
ウェイター・ウェイトレス4.7%
秘書2.0%
大学教員4.4%
現実では、大量の黒人の採用は、会社の能力や信頼性についてのイメージが傷つくのではないかと恐れられていた。レストランやバーでの黒人の雇用率を見ていただきたい。「白人の客が黒人による食べ物や飲み物のサービスを好まない」、「多くの黒人従業員を雇うと店の格が下がる」と恐れた結果、ウェイター、ウェイトレス、バーテンダーなどの直接客を接待する職業では黒人の比率が低いのだ。
黒人労者と白人労働者の所得の格差は大きかった。1951年に黒人の平均所得は、白人の62%で、1962年にはその割合は55%となった。また、1960年の黒人労働者の平均所得は3075ドルであったのに対し、白人労動者の平均所得は5137ドルであった。1960年の白人と黒人の家族所得の分布を示す。
黒人家族 白人家族
5万ドル以上 9.9% 24.1%
3.5万―5万ドル 13.9% 24.1%
2.5万―3.5万ドル 17.6% 20.6%
1.5万―2.5万ドル 24.0% 16.9%
1.5万ドル以下 34.6% 14.3%
一番怖いのは職にすら就けない黒人もいた。1963年、白人の失業率が6.0%に対して、黒人は12.4%が失業状態にあった。1923年の大恐慌不況に代表されるように、不況の度に黒人の職場は奪われた。
〜キング牧師の思想と行動〜
一節 カリスマ性
キングの、理性よりも情緒に訴える深いバリトンの声で響きの良い言葉を繰り返し用いる話し方に聴衆は熱狂的に反応した。キングは自由についてのキリスト教的メッセージを効果的に語り、強いインパクトを与えた。彼は、白人も黒人も人種主義を無視して、なおもキリスト教であると言いつづける事のできない矛盾を浮き彫りにした。彼は勇気と知性と献身の精神に満ちた指導者だった。彼の家に爆弾が投げ込まれても、家から出てきて非暴力について演説したことからも彼の意志の強さがうかがえる。少数民族である黒人たちが運動で成功を収めることができたのは、キングが白人たちの心をつかみ、彼らの運動に白人たちも加わったからである。大衆が動かなければ、この運動は成功しなかっただろう。この点が白人参加を認めなかったマルコムXをはじめとする他の黒人指導者とキングを分ける主な点である。
二節 理念
デモ参加者全員に非暴力による抵抗を訓練させ、次の内容の「十戒」を守るように、誓約書に著名までさせた。
1.イエスの教えと生涯について、毎日黙想せよ。
2 .非暴力運動は、正義と和解を目指すものであって、勝利を目指すものでないことを銘記せよ。
3 .神は愛であるので、歩くときも話すときも、愛を持って行動せよ。
4 .すべての人間が自由になるために、神に用いられるよう、毎日祈れ。
5 .すべての人間が自由になるために、個人的な願望を犠牲にせよ。
6 .見方に対しても敵に対しも、礼儀についての普通の規則を守れ。
7 .他人のためにも世界のためにも、定期的な奉仕をするようつとめよ。
8 .拳と舌と心の暴力を慎め。
9 .正しい精神と肉体の健康を保つように努力せよ。
10.運動とデモの指導者の指示に従え。
三節 行動
1955年12月1日、デパートのお針子のローザ・パークスが帰宅するためにバスに乗った。白人席のすぐ後ろが開いていたので座ったが、次の停留所で白人が何人か乗りこんできて白人席がいっぱいになった。白人が一人立っていたので、これに気付いた運転手がパークスと同じ列に座っていた三人の黒人に席を空けるように言った。三人は席を譲ったが、パークスは応じなかったので逮捕されてしまった。
1963年8月28日、全米から人々が集まり、ワシントンで大行進することになった。参加者は20万人以上にもなり、そのうち6万人は白人が占めていた。この大集団がそれぞれのプラカードを掲げ、歌を歌いながら、ワシントン記念塔からリンカン祈念堂まで1キロあまりの距離を行進した。
行進の最後には、キング牧師が「私には夢がある」スピーチをした。全ての行事が無事に終わった後、キングを含めた10人の黒人指導者がホワイトハウスを訪問した。ケネディ大統領、ジョンソン副大統領、ワーツ労働長官などが議会に提出した黒人たちに平等の権利を認める最終的な公民権法案の成立に努力する事を約束した。
こうして経緯によって、白人と黒人間の分離を認めていた南部各州の法律は撤廃されていった。
四節 評価
公民権法、投票憲法が可決して黒人たちの未来に大きな影響を及ぼした。黒人公職選挙者で課される人頭税や、議員や大統領の選挙における黒人投票者に対する課税や識字テストが、完全廃止されたことによって黒人たちは断然選挙に参加しやすくなった。そしてキング率いるSCLCが選挙登録を促した事で、1960年からミシシッピー州で6.7%から59.8%、アラバマ州で19.3%から51.6%に増加した。この間に黒人の公職者は以前の倍以上に当たる2000人以上に上昇した。ジョンソン大統領もどんどん黒人が依然就くことのなかった地位に黒人を任命していった。こうして黒人の意見が反映される政府が出来上がり、彼らが苦しんでいた雇用や住宅の差別は消えていったのだ。
アメリカにおいて黒人の持っている政治的・文化的な影響は、キングと公民権運動の成果無くしては考えられない事である。キング牧師、はノーベル平和賞を史上最年少の35歳で受賞した。そしてタイム誌は64年の「マン・オブ・イヤー」にキングを選んだ。
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