
(文化遺産、基準4・5)
白川郷および五箇山には以下のような言い伝えがあるほど山深い地域だ。
1183年、平維盛は10万の軍勢を率いて北陸道を攻め入り木曽義仲と戦った。
「火牛攻め」をもって敗れた平家は白川郷・五箇山に逃げ、村を作った。
白川郷と五箇山の合掌造り集落は現在、築100年から200年の合掌造りの家屋が約130ある。岐阜県白川村の荻町地区に59棟、また五箇山(富山県庄川中流の谷)の上平村菅沼に9棟、平村相倉に20棟である。

この地域は戦後、電気および道路が整備されるまでは他地域との交流が少なかった豪雪地帯である。稲作はあまり行われず、軍事物資(紙すきや火薬の原料)である塩硝と養蚕を生活の糧にしてきた。養蚕の生産効率を上げるためには蚕の数を増やし、また餌となる桑の葉の生産量を拡大する必要があった。そのため、床面積が広く、屋内が多層化した合掌造りが誕生した。この地域では明治末期まで長男以外は妻帯を持つことが禁じられていた。これは耕地の細分化を防止するとともに、多くの人手を必要とした養蚕業の人手確保を確実にするためである。当時は一家が40人を超えることもあったと言われている。
しかし、1930年の小牧ダムを筆頭に、多くの電源開発用のダムが建設され、合掌造りの家屋は減少へと向かった。1961年の御母衣ダムの建設の際には4地区が水没した。また、1940年から1960年ころまで続いた高度経済成長の中で、古くて不便な合掌造りの家屋の多くが建て替えられてしまった。1945年には300棟あった合掌造りの家屋も1967年には166棟にまで減少した。1970年代の人口流出(田舎→都市)でも多くの家屋がなくなり、1971年から合掌造りの保存活動が行われてきた。その成果もあり、1995年に世界遺産に登録された。