ホーホー

答えについて。
「ウ」という見方と「ア」という見方
2つがあるのだよ。

中世の日本の武士が北海道の中心部まで攻め込んだことはありません。

三代目の領主、義広はもっぱら武力に訴えてアイヌの人々を制圧しようとしました。
しかし、1545年に領主の地位を継いだ蠣崎季広(すえひろ、1507〜1595)は、それまでの
武力制圧の方針をやめることにしました。

1551年、季広は松前周辺の東西のアイヌと全面的に講和したのです。彼はその証拠として
両方のアイヌの代表を招いて、多くの「宝物」を提供する一方、次の三つの提案をしました。

   その1.2人の代表を「東西それぞれのアイヌの首長(しゅちょう)」と認める。
   その2.今後、松前近辺にやってくる和人の商船から税金を徴収して、その一部を
       「夷役=アイヌ分」として両首長に配分する。
   その3.アイヌの船にも「往来の法」を定める。アイヌ人が各首長の住居の前を
       航行するときには、帆を下げて休み、首長に敬意を示させるようにする。

2人の代表はこの提案を喜んで受け入れました。そればかりか、これ以後アイヌの人々は
蠣崎季広のことを尊敬して、アイヌ語で「カムイ=神のような人」と呼んだということです。



ススム
[メニュー]
アイヌ語辞典
サイトマップ