寿司の歴史
奈良時代〜平安時代
東南アジアで魚とご飯を漬け込んだ物が食べられていました。それが中国に伝わり、
日本に伝わったと考えられています。
「おすし」は「お酢し」のことで、すっぱいものという意味です。「お寿司」という字が
使われるようになったのは江戸時代からです。鮨【すし】、又は鮓【すし】は、
寿司の意味ですが、古代中国では「鮨」は魚の塩辛を、「鮓」は塩と米を使った
魚の漬物を意味していました。日本では、2つの字は最初から塩と米を使った
魚の漬物の意味で使われていました。このように、魚介類などを米飯と一緒に
半年から一年漬け込み、乳酸発酵することを利用したものを「馴れ鮨」と言います。
日本の文献に鮨が登場するのは8世紀になってからです。しかし、漬物としては、
稲作が伝わったとされている縄文時代にはすでに食べられていたかもしれません。
奈良時代にはアワビ・タイ・イガイの馴れ鮨が、平安時代には魚介類の他に鹿や
イノシシの鮨・フナ・アユ・サケなどの鮨も作られていました。この時代は、魚や貝だけを
食べて、ご飯は食べていなかったようです。また、この頃の鮨は身分が高い人たちの
食べ物であったと言われています。
室町時代〜江戸時代
室町時代になると、生成【なまなれ・なまなり】という鮨が発明されました。熟成させず、
ぶつ切りにしたウナギやドジョウなどを塩を入れた酒に一晩漬け、さらに米飯と塩だけで
漬け込みました。
ご飯も食べられていました。これは、当時の人々にとってご飯が貴重品で、捨ててしまうことに
抵抗を感じたためだと思われます。
江戸時代〜
江戸の元禄時代になると、酢飯を箱につめ、その上に魚介類を乗せて落し蓋をし、
上から重しを乗せて数時間後に食べる「箱寿司(押し寿司)」が作られるようになりました。
これは、「早寿司」と呼ばれました。江戸時代の文政年間(1818〜1830)に江戸では、
江戸湾でとれた新鮮な魚(江戸前)を酢飯で握ったご飯にのせたにぎり鮨が中心となり、
各町内に1,2軒のすし屋がありました。明治になってからは、江戸湾以外の魚も
使われるようになりましたが、にぎり鮨は「江戸前寿司」と呼ばれています。
このにぎり鮨をヒットさせたのは「華屋与兵衛」という人だと言われています。