だが松岡洋右が外務大臣となると、その構想は全く違ったものへと変化していきました。日ソ中立条約を結ぶことでソ連を枢軸国側(ドイツ・イタリア側)に引き入れ、最終的には4国同盟を結ぶ事で国力に勝るアメリカに対抗しようとするものへと変えられた。初ソ連は応じなかったものの、ドイツの 対ソ侵攻計画を予見しこの提案を受け入れ、1941年4月13日に調印しました。条約調印後、ソ連は極東(中国・満州方面)に配備していた部隊を対ドイツ戦に投入するために移動。そのため、同年12月8日のソ連軍のドイツ東部戦線での反撃につながり、この戦闘でのドイツの敗戦が、ドイツ敗北の遠因となる。