1811年にアボガドロの法則を発見した化学者。 また、この法則によって分子の考え方が誕生した。 大学卒業後、当初は弁護士事務所を開いていたが、 1800頃に気が変わったらしく、化学の道へ進む。 1820年に誕生したイタリア初のトリノ大学の数理物理学教室の、初代教授となる。 そのわずか2年後に教室は閉鎖されてしまうが、 1834年に復活。1850年まで勤めていた。
1803年に原子説を発表した化学者。 この法則は質量保存の法則や定比例の法則を証明するために誕生した物らしい。 その翌年には倍数比例の法則も発表している。 これは分子説の元にもなった。 1793年、マンチェスター大学に入学し、自然学を研究した。 色覚異常だったため、赤緑色覚異常(ドルトニズム)の語源ともなった。
1788年に質量保存の法則を発表した化学者。 また、1977年に燃焼についても説明したと言われている。 さらにフランスの科学者ベルトレーと共に物質の命名法を生み出している。 1791年に国家財政委員に就任し、市民の税の負担を減らそうとしたが、一部の支配者の反感を買い 1794年に処刑される。 現在、パリの市役所に彼の銅像が飾られているらしい。
1808年に気体反応の法則を発見した化学者。 これは「ゲーリュサックの法則」や「シャルルの法則」とも呼ばれる。 「シャルルの法則」と呼ばれる由来は、ジャック・シャルルという化学者が ゲーリュサックより先にこの法則を発見したと言われているからである。 1808年にデービーと共にホウ素を発見。科学技術の発展に貢献した。 1815年シアン基を発見。 1827年硫酸の製造を行うゲーリュサック塔を開発。 さらに、塩の溶解度曲線の作成や、有機分解法の改良、容量分析法の発見など、 他の化学者に比べ多くの業績を残した。
1799年に定比例の法則を発見した化学者。 その後クロード・ルイ・ベルトレーとの論争を通じて完全に成立する。 1783年、気球の開発に着手。1792年にカルロス4世の前で飛行に成功。 1789年にマドリッドの王立化学研究所所長となる。 1794年、ブドウ糖などの糖分の研究で名を上げる。 1808年、カルロス4世が退位し、保護者を失う。 その後は化学者を引退し、故郷であるアンジェで人知れず死去する。