岐阜県の三井金属工業から出たカドミウムが、神通川下流の水田の土壌を汚染し、そこで栽培されていた稲に入ってしまい、
それを長年食べた人たちがかかりました。
また水田だけではなく周りの土壌にも汚染が広がり井戸の水にもカドミウムの汚染の影響がありました。

カドミウムは骨からカルシウムを奪って骨がもろくなり、重症になると咳、くしゃみをしただけで肋骨が折れたりするほどで、かかった人が「痛い、痛い」といったことからこの病名がつきました。
このように少し動くだけで骨が折れてしまうので患者は病院のベッドで長い間絶対安静を余儀なくされました。

この公害は長くに渡り影響を出していましたが国はなかなか認めず、結局認めたのは15年後の1968年でした。
その中で被害者らはイタイイタイ病対策協議会を結成し、小松義久を裁判で訴えました。
国はその環境を変えるため法律を出しました。
その時点で死者は24名にもなっていました。

この公害病の判決が出たのは4つの中で一番早く、他の公害病に苦しんでいる人たちの大きな支えとなりました。
現在では患者数が123名となっています。

熊本県水俣市のチッソという会社が製造する工程でつかった水銀が、工場排水として流された。
その水銀で汚染された魚介類をたくさん食べた人から発症しました。
また「猫踊り」とよばれる神経疾患でたくさんの猫が死んだことが以前から報告されていました。

これは、食物連鎖の過程で最終的に人間に及んだものです。
主な症状は、感覚障害、運動失調、聴力障害などで死に至ることもあります。
また本人だけではなくお腹の中の赤ん坊にも影響がありました。

結局工場が非を認めるまでに63名が死亡し、今現在水俣病と認定された人は1179名、認定を申請している人は3000名にもなっています。
熊本大学医学部水俣病研究班は、1959年に原因物質を究明していましたが、国の対策が遅く、各工場で出ている水銀の規制が出来なくて第二水俣病を防ぐことができませんでした。

第二水俣病は水俣病と同じく水銀が流されていたことが原因でした。
阿賀野川下流の新潟市松浜の地域がとくに被害をこうむり、死者23名、患者数は516名になりました。
先に説明したようにこの公害病はもう少し早く国の対策が出ていれば事前に防ぐことが出来ました。

また、水俣病のときの資料を国が隠ぺいし、破棄してしまったことで、この同じ原因の病気に活かすことが出来ませんでした。
国が非を認めなかったことでこんなにも死者がでてしまいました。
このことに対し一体どんな責任がとれるのでしょうか?

当初は「地震によって農薬がもれたのではないか」と企業側は主張していましたが、倉庫の農薬がもれた形跡はなくきちんと保管されていました。
また農薬の中に含まれている水銀とは種類が違い嘘だということがわかりました。
企業側は自分たちに原因があることを隠そうとしていました。
このように企業の対応はたいてい悪く、訴えた被害者たちは長い裁判を行い大きな苦労を強いられます。

1960年に三重県四日市市に石油コンビナートができたことが事の発端となりました。
その大きなコンビナートは街の誇りですぐ近くにあった小学校の校歌にも「科学の誇る工場」と歌われているほどでした。

そんな三重県四日市市の石油コンビナート。
その排煙に含まれる二酸化硫黄のために起きたのが四日市ぜんそくです。
普通のぜんそくと症状はなんら変わりありませんが、その地域にいることで発作の回数が増え、治りにくくなったり、呼吸機能の低下が見られました。


この公害病では訴えを起こして勝利したことによって、このあとの大気中の有害物質の含まれる量やここで被害を出したガスの環境基準の改正にもつながりました。 四日市の大気汚染を改善したのは、実は高い煙突ではなく、硫黄を取り除く技術の普及、より硫黄分の少ない原油への切り替えでした。この方法は当時最も効果的であり、国と企業は硫黄の少ない原油の輸入を増やすと同時に硫装を取り出す技術の開発を優先的に進めました。
しかし、このような脱硫対策が実現した背景には、硫黄が鉱山で採掘するよりも安価で手に入るという事情がありました。

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