第1章〜平安の幕開け〜

←戻る 次へ→

a.平安の始まり

母が渡来系の高野新笠である桓武天皇(位781〜806)は784年に長岡京へ遷都。
しかし造長岡宮使藤原種継が暗殺され、なかなか長岡京は完成しなかった。
さらに飢饉や疫病や桓武天皇近親者の死去など不幸な事件が続いた。
その十年後794年和気清麻呂 の建言により平安京へ遷都した。
これ以降をいわゆる平安時代という。

<平安京の図>

平安京は右京左京にわかれており、天皇は平安宮にいる。
図のように右と左が逆なのは、天皇から見てどちらにあるかを意味するからだ。
平安京の中には数多くの細かい道があるが、覚えるのは朱雀大路だけで十分である。

b.平安初期の政治

平安初期には蝦夷征討の動きが活発になり、
征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷の隊長のアテルイを屈服させた。
また802年胆沢城を築き、鎮守府を多賀城から移し、803年には志波城を築いた。
そして藤原緒嗣が、
「人々を苦しめているのは軍事(戦)と造作(平安京の建設)だ。」
ということを言ったにより、桓武天皇は805年に軍事と造作を停止した。

桓武天皇の政策〜新都の造営、蝦夷鎮圧による国力の低下
@国司交代の際の解由状授受の不正を防ぐために勘解由使を設置した。
A班田の励行として班年を6年1班から12年1班へ。
B公出挙の利息を3割とし、雑徭を半減した。
(ちなみに時代はさかのぼるが藤原四子の南家である藤原仲麻呂、通称恵美押勝も
同様のことをした。)
C軍制の改革として、軍団を廃止し、郡司・富裕者・有位者の子弟で、
弓、馬の巧みな者を採用する健児(こんでい)の制を設置した。(792年)

嵯峨天皇の政治
@令外官(律令に規定のない官職)の設置。
a,蔵人所〜薬子の変の直前に設置。
長官の蔵人頭には藤原北家の藤原冬嗣が任命された。
仕事は主に天皇の側近に待して機密の文書や訴訟を扱う。
b,検非違使〜いわゆる現在の警察の仕事
c,その他の令外官には、中納言、参議、内大臣など。
A法制の整備
a,〜律令の条文補足、改正
b,〜律令の施行細則
c,弘仁格式〜藤原冬嗣らが編纂
B令の解釈
a,『令義解』〜官選注訳書・・・清原夏野が編纂
b,『令集解』〜私撰注訳書・・・惟宗直本が編集

←戻る 次へ→