Section4. 選手へインタビュー ~葭原滋男さん~

選手にとって、パラスポーツとは何なのでしょうか。

タンデムサイクリング選手で、シドニーパラリンピック金メダリストの葭原さんにオンラインでインタビューをさせて頂きました。

葭原 滋男さん
障がい:網膜色素変性症
1972年:(10歳)網膜色素変性症と診断される
1992年:(30歳)バルセロナパラリンピック 走り高跳び 4位
1996年:(34歳)アトランタパラリンピック 走り高跳び 銅メダル
2000年:(38歳)シドニーパラリンピック タンデムサイクリング タイムトライアル-金メダル、スプリント-銀メダル
2004年:(42歳)アテネパラリンピック タンデムサイクリング スプリント 銀メダル
 
写真は、葭原滋男さんご本人から頂きました。

網膜色素変性症とは

指定難病90
目の内側にある網膜という部分に異常をきたす遺伝性、進行性の病気です。

現在、葭原さんは、光を認識できる程度だそうです。

Q1.障がいを持つことについてどう考えていますか。

中学生のころは、暗いとちょっと見えにくい程度だったのですが、それから少しずつ病気が進行したので、気が付いたら光が見える程度まで進行していました。

Q2.競技を始めた理由

すごく浅はかです(笑)
障がい者版の国体(国民体育大会の略)に参加しないかと勧められ、開催場所だった沖縄に行きたい、という気持ちから練習するうちにパラリンピックなどを知り、のめりこんでいきました。

また、スポーツをやっている時は、見える・見えない関係なく「障がい」を忘れて、一人のアスリートになれることが魅力です。

Q3.競技をやり続ける中で嬉しかったこと・辛かったこと

嬉しかったことは、パラリンピックで金メダルを取れたこと。金メダルを目標にして、毎日の練習の中で、年単位で目標をたてることを繰り返した。大体年間50個くらいの目標を立てていたため、一週間に1個達成しなくてはいけなかったので、4年間もあっという間でした。
辛かったことは、仕事との両立。辞めたい、と思ったこともあったけれど、家族や仲間、多くの支えてくれる人、応援してくれる人が居てくれたから続けられた。

Q4.競技する上で必要なもの・人などありますか。

支えてくれた人への感謝。
自分の夢のために犠牲になった人には感謝しなくてはいけない。ずっと支え続けてくれた奥さんには特に。
スポーツの出来る環境を得ることが必要です。現状、障がいがあっても、いつでも、どこでも、気軽にスポーツをできる環境とは言えません。

Q5.中高生に伝えたいこと

「かっこいいな!」と思えるなら凄い嬉しいですね。どうしても「可哀そう」や「大変そう」とどうしてもイメージしてしまう。でも、障がいがあってもこれだけ出来る!、努力や工夫、発想で出来るようにすること、これがパラリンピックの魅力。
「辞めたい」と思っても発想や考え方を少し変える、そして何より楽しむことが一番!
普通の人が10回やって諦めてしまうものを、100回やって出来るようにした人のことをアスリートという。出来るようにした人だから分かる場所がある。
どんな小さなことでも挑戦していってほしい。


Q6.社会全体としてできること

「障がい」が何か考えてほしい。
本人は案外、「障がい」として捉えていないかもしれない。何がベストなのかを考えて行動するのが大切。
現在はアプリなども多様化しており、「Be My Eyes」といったアプリや、画面の言葉を読んでくれる「ボイスオーバー」というものもある。

協力

オンラインインタビューに応じてくださった葭原滋男さん、
協力してくださった参天製薬の皆様ありがとうございました。

 

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ブランドガイドラインに基づき使用しています。


まとめ

スポーツをしている時は、「“障がい”を忘れて、一人のアスリートになれる」という言葉がとても印象的でした。
私は、パラリンピックを見て、障がいを持っていても、自分のできることを全力で行っているアスリートの力強い姿に感銘を受け、障がいへのイメージも私の中で大きく変化しました。
また、支えてくれる人への感謝がパラスポーツをやっているのに必要とおっしゃっていたり、辛いときに仲間がいたから続けられたというお話をしてくださったり、周囲の人のサポートの重要性や繋がりの強さを感じました。



参考資料

難病情報センター 網膜色素変性症 https://www.nanbyou.or.jp/entry/196


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