目次
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新大陸への上陸
コロンブス率いる探検隊はアメリカ大陸に上陸。彼らはもともとここをインドだと考え、 奴隷として原住民を本国に輸送しようとしました。後にアメリゴ・ヴェスプッチによってこれが インドではなく新大陸だと決定づけられても、彼らは移民・奴隷輸出をやめませんでした。 コロンブスは新大陸の奴隷を「彼らは理想的な奴隷となるだろう」と自身の日記で語っています。
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ロンドン会社やジェームス・オグルソープによって1世紀もかけて13の植民地が、 英国国王の許可のもと設立されました。これらの植民地では、黒人を使ったプランテーション農業や重工業が発展した。
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フレンチ・インディアン戦争
植民地拡大をもくろんだ英国と仏国が衝突したことで起こった米国北部の戦争。 戦争費用の一部を原住民含む植民地に負担させようとした本国は砂糖法・印紙法を可決しました。
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耐え難き諸法
様々な宗主国が課した法律に対しての反発が植民地で起こったのを受けて英国は、 ボストン港法:港の制御 マサチューセッツ政府法:植民地の管理に対する王室の支配を強化 司法行政法:裁判所の変更要求の許可 等、英国に有利な法律が可決されました。
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新大陸への上陸
たびたび起こる「耐え難き諸法」に対する反発の動きに対し、13の植民地の代表者たちは「大陸会議」 を開き国王に対しこれ以上の「耐え難き諸法」を含む敵対行為を防止するように「オリーブの枝請願」[要確認]を採択した。 しかしながら英国国王はこれを無視。これに対し、各植民地は正式な独立宣言の承認を取り付け1776年「独立宣言」が宣言された。
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南北戦争
奴隷制賛成の南部、奴隷制反対の北部に分かれてアメリカが統一のために動いた戦争。 北部が勝利し、奴隷制はなくなりました。しかしながらこれはとても黒人にとって よくないことでした。
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Ku Klux Klan
アメリカ・テネシー州において、南部退役兵6名によって設立された、北方人種至上主義団体。 北方人種以外の人種の市民権獲得に異を唱え、カトリックLGBTQ+、フェミニズム運動にも反対の立場をとる。 関連グループとしてドイツの「燃えるような十字架の騎士」があり、後に彼らはナチスに併合された。 ナチスのアーリア人至上主義と似たところを持つ。 1927年に分裂したが今でも100~158程KKKの分裂グループがアメリカの旧南部~中西部にあるとされる。
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ジム・クロウ法
アメリカ南部における人種隔離的な法律/規制の総称のこと。 黒人は白人に対し、Mr.Ms.等敬称をつけて離さなければならず、帽子も外すべき という差別的規則をまとめ、当時暗黙の規則・悪しき慣習が明文化されたうえ、 「分離すれども平等」の考え方につながるのである。
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「分離すれども平等」
「被差別者にも差別者と同じように施設を作れば、差別とは認められない」
という考えが当時米国には広がっていた。つまりは白人専用のトイレを作ったなら黒人用のトイレも作れば差別ではないということである。 この考えに対し、黒人は「プレッシーvsファーガソン裁判」という裁判を起こしたが 最高裁はこれを棄却。これによりこのような考え方が以後半世紀にわたり米国に存在していた。
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リンチ
当時成功した黒人起業家の家や会社が、嫉妬から白人により焼き討ちにされることはよくあることでした。 しかしながら、1890-1920年代に、3000もの黒人が、見世物として吊るされ、切断され、火をつけて殺された。 当時としては一大イベントで、ツアーまで組まれることもあった。
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Ku Klux Klan
当時原因が断定されていないが、アラバマ州などで一部の構成員がKKKが自主的に控えていた過激な上のような活動を再開する。 州の保守エリート層から手痛い反撃を食らってしまう。これによりKKKはその構成員の数を減らし、 1927年に分裂したが今でも100~158程KKKの分裂グループがアメリカの旧南部~中西部にあるとされる。
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14才の命
シカゴ出身のエメット・ティルは、ミシシッピ州の店の経営者の白人女性に対して話しかけてしまった。 彼は、当時訪ねていた大叔父の家から拉致され地元の川に身元判別が難しいほど損傷した状態で、遺体となり発見された。 彼の母、大叔父は加害者の白人を訴えたものの、無罪。しかしながら、母は、遺体の撮影を許可したため、南部のリンチの 凶悪さはアメリカ全土に伝わり、公民権運動を助長することになった。
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白人用エリア
ローザ・パークスは、モンゴメリーの市バスで白人に席を譲ることを拒否したことで逮捕された。 彼女のこの行動がモンゴメリーでのバスボイコット運動のきっかけとなり、これが組織的な 黒人による公民権運動の始まりである。
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I HAVE A DREAME
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は「ワシントン大行進」と呼ばれる差別反対運動の最後で、この有名な言葉とともに演説を行った。 大規模な活動家として当時の黒人差別の反対派筆頭として有名であったが1968年死亡した。
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マルコムX
キング牧師が穏健派と呼ばれる一方、マルコムXは過激派の筆頭として名をはせていました。 彼の父親は自給自足にこだわり白人に頼らない生活を送りましたが、それをよく思わない白人から殺されました。 しかし彼の父親は公式では「自殺」とされ、彼の母親は精神を病み、精神病院に入院。 彼女は病院で人権侵害と言われてしまうような扱いを受けたが、病院はカルテを「無断で破棄」したため、詳細は不明である。 マルコムXは幼少期から黒人の差別をまじまじと見てきており、そこからか、当時過激派の黒人公民権運動の組織「NOI」 に入信。しかしあまりにも過激すぎたため脱退し、その後一人で持ち前の話術をもって反黒人差別の指導的ポジションになった。 彼はその後NOIによって39才の時に暗殺されている。
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バラク・オバマ
バラク・フセイン・オバマ2世は米国初の黒人大統領である。このことは米国において、自国のトップがアフリカ系黒人 となったことになり、黒人が評価されつつあることのあらわれである。