黒人差別の歴史
彼らは奴隷貿易にうまみがなくなり、さらにうまみがある方法があると知ると。彼らは黒人を本国が欲している砂糖やお茶を栽培しました。 これが、黒人奴隷の始まりでした。
植民地拡大をもくろんだイギリスとフランスが衝突したことで起こった米国北部の戦争。 戦争費用の一部を原住民含む植民地に負担させようとした本国は砂糖法・印紙法を可決しました。 このため、米国の農業のオーナーたちはお金は稼げなくなり、反発だ大きくなりました。
様々な宗主国が課した法律に対しての反発が植民地で起こったのを受けて英国は、 ボストン港法:港の制御 マサチューセッツ政府法:植民地の管理に対する王室の支配を強化 司法行政法:裁判所の変更要求の許可 等、英国に有利な法律が可決されました。
たびたび起こる「耐え難き諸法」に対する反発の動きに対し、13の植民地の代表者たちは「大陸会議」 を開き国王に対しこれ以上の「耐え難き諸法」を含む敵対行為を防止するように「オリーブの枝請願」[要確認]を採択した。 しかしながら英国国王はこれを無視。これに対し、各植民地は正式な独立宣言の承認を取り付け1776年「独立宣言」が宣言された。
米国連邦議会においては、奴隷制をめぐる対立が北部・南部に分かれて当初から激しかった。インディアン強制移住法によって原住民排除が終わった西に白人領土の拡大を進める西漸運動が展開され、西部に奴隷制採用州の誕生の危機が迫った。 ストウ夫人の『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷制非人道的な実態が北部の市民にも広く知られるようになり、奴隷制廃止の気運が強まった。 それにもかかわらず、南部(民主党)の議員たちによってカンザス・ネブラスカ法が可決され奴隷制採用州の増加しそうになり、連邦議会は類を見ないほどの緊迫した雰囲気になった。 最終的には、1861年に南北戦争を勃発するまでに至るのであった。
奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制が廃止された。 連邦議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、 南部諸州の再建の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、 それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。 その過程で、憲法修正第14条で黒人の市民権が承認をし、 憲法修正第15条で黒人の投票権が承認された。 しかしながら南部民主党を排除できたことに喜んだ北部共和党は黒人に対して資金的バックアップを怠った結果、 小作人となってしまい、白人の下で働くことに変わりがなかった。 残念ながら平等な世界を一気に実現することはできず、 黒人差別は根強く残る結果となってしまった。
南北戦争で旧南部州が負けたことこれは黒人にとっては悲しい事件でした。
一見すると奴隷から解放されるため、黒人にとってよいことに見えますが、
南部州と北部州では黒人に対する考え、見方は180度違っていました。
南部州は自分の利益のために働いてくれる良きパートナー
北部州は自分の利益をとってしまう悪しきライバル
ここまでひどくはないかもしれませんが、結局北部州の方が黒人に対し嫌悪感を持っていたのは事実です。
実際のところ奴隷解放宣言を出したリンカーンがいた共和党から黒人大統領が出るより先に、
奴隷を使用した経済を成り立たせていた旧南部州育ちの民主党から黒人大統領が出たのはこういうからくりがあったためです。
確かに旧南部州でも白人・黒人差別はありました。しかし、これからの時でいでは、北部では見られない 白人と黒人が同じテーブルで酒を飲みかわすという光景は、南部では見かけることができました。 その子に関して北部の白人は、「先進的だ」や「怪奇だ」などと三者三様の反応を示しましたが、 結局のところ、黒人にやさしかった世界も北部州によって優しくなくなってしまったのでした。
↑米国議会図書館より「ターミナルで「カラード」専用の飲み水場で水を飲む男性」https://www.loc.gov/pictures/item/2017740552/
アメリカ南部における人種隔離的な法律/規制の総称のこと。 黒人は白人に対し、Mr.Ms.等敬称をつけて離さなければならず、帽子も外すべき という差別的規則をまとめ、当時暗黙の規則・悪しき慣習が明文化されたうえ、 「分離すれども平等」の考え方につながるのである。
「被差別者にも差別者と同じように施設を作れば、差別とは認められない」 という考えが当時米国には広がっていた。つまりは白人専用のトイレを作ったなら黒人用のトイレも作れば差別ではないということである。 この考えに対し、黒人は「プレッシーvsファーガソン裁判」という裁判を起こしたが 最高裁はこれを棄却。これによりこのような考え方が以後半世紀にわたり米国に存在していた。
シカゴ出身のエメット・ティルは、ミシシッピ州の店の経営者の白人女性に対して話しかけてしまった。 彼は、当時訪ねていた大叔父の家から拉致され地元の川に身元判別が難しいほど損傷した状態で、遺体となり発見された。 彼の母、大叔父は加害者の白人を訴えたものの、無罪。しかしながら、母は、遺体の撮影を許可したため、南部のリンチの 凶悪さはアメリカ全土に伝わり、公民権運動を助長することになった。
ローザ・パークスは、モンゴメリーの市バスで白人に席を譲ることを拒否したことで逮捕された。 彼女のこの行動がモンゴメリーでのバスボイコット運動のきっかけとなり、これが組織的な 黒人による公民権運動の始まりである。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は「ワシントン大行進」と呼ばれる差別反対運動の最後で、この有名な言葉とともに演説を行った。 大規模な活動家として当時の黒人差別の反対派筆頭として有名であったが1968年死亡した。
キング牧師が穏健派と呼ばれる一方、マルコムXは過激派の筆頭として名をはせていました。 彼の父親は自給自足にこだわり白人に頼らない生活を送りましたが、それをよく思わない白人から殺されました。 しかし彼の父親は公式では「自殺」とされ、彼の母親は精神を病み、精神病院に入院。 彼女は病院で人権侵害と言われてしまうような扱いを受けたが、病院はカルテを「無断で破棄」したため、詳細は不明である。 マルコムXは幼少期から黒人の差別をまじまじと見てきており、そこからか、当時過激派の黒人公民権運動の組織「NOI」 に入信。しかしあまりにも過激すぎたため脱退し、その後一人で持ち前の話術をもって反黒人差別の指導的ポジションになった。 彼はその後NOIによって39才の時に暗殺されている
バラク・フセイン・オバマ2世は米国初の黒人大統領である。このことは米国において、自国のトップがアフリカ系黒人 となったことになり、黒人が評価されつつあることのあらわれである。 これは当時の情勢では異例のことでした。
日本の学制における高校2年生に当たる学年であるトレイボン・マーティンは、2月26日、裁判官を夢見ていたジマーマン によって射殺されてしまった。この事件はBLM運動のきっかけになった。