前のページではキリスト教における偽善の定義や見方を学びましたね!
今度は私の身近にある"仏教"の視点から偽善を見てみましょう!
引用した資料は中国の仏教編年史書「仏祖歴代通載」の中の、武帝と達磨大師(禅宗の教祖)の会話です。
武帝は、「私は即位してから、いっぱいいいことをした。だから、どれだけえらい?」と聞いているのに対して、
達磨は「全然えらくない」と一喝しました。
なにか理由があったんですか?
達磨が言いたいのは”善行は見返りをもとめて行うものではない”ということです。
仏教では見返りなどの煩悩を含んだ善のことを「雑毒の善」といいます。
キリスト教の時に出てきた偽善と同じ意味ですね!
そうですね。 あとでキリスト教と仏教を比べてみましょう。
先ほど、雑毒の善は欲にまみれた善だから偽善と同じ意味ではないかと言いました。
この雑毒の善について親鸞という人がこう言っています。
「浄土に回向」はよく極楽浄土とか聞くから、、、天国に行くってこと?
ということは雑毒の善を持っていたら天国に行けないと言いたいのかな?
浄土についての考え方もこの文章の読み取りも合っていますよ。
じゃあキリスト教徒同じく、仏教も偽善は悪いことだと考えているんだ!
そう言いたくなりますが、偽善に対する仏教の見方の前提が違うんです。 仏教では”煩悩はなくなるものではない”と考えています。
煩悩がなくなることはない!? あきらめているってことですか?
煩悩がなくならないので、善をするとかならず雑毒の善になってしまいます。つまり、人間がする善はすべて偽善!
でも、浄土できないからと言って、善(偽善)をしないのはダメなんです。
…ど、どういうこと?
少しややこしいですね。
では次の資料を見てみてください。
これは仏陀(ブッダ)という人が唱えたものです。
これとさっき私が言ったことを併せて考えてみましょう。
たとえ偽善だとしても善行をすれば、いい結果になるということですか?
そうです!これらのことより、仏教は偽善を肯定していると捉えることができます。
なぜなら、仏教の偽善の意味では、私利私欲のためだとしても善行をしているからです。
先ほど、善をつんでも雑毒の善になるので、往生はできないといいましたね。
じゃあ、誰も浄土に往生できないってこと?
いや、大きな転換があって、人間には自力で浄土に往生できないのを可能にする阿弥陀仏というのがあるんだよ。
その時にどんな人も平等になると言われているよ。
へえ。つまりみんな往生するけど、人生を良くしたいなら善をすることが大切ってことね!
途中までキリスト教と同じだと思っていたけど、少し違いがありますね。
次のページでキリスト教と仏教の比較をしてみましょうか。