さあ、第二章と第三章で偽善に対するキリスト教と仏教の考え方をみましたね。
理解できるところと理解できないところがあった…
私も頭が混乱してます…
そんなお二人のために比較を交えたまとめを作りました!
わあ!わかりやすい!さすが先生!
ありがとう!作った甲斐がありました。
さて、今まで宗教でのことをやってきました。
偽善の意味は善人ぶるけど内心は欲があるということでしたね。
ここで疑問に思いませんか?
疑問?別にないと思うけどなぁ
他人の内心なんて見えないじゃん!!
なんて思いませんか?
たしかに!人の心が読めるなんてありえない!
キリスト教の偽善の意味での言行不一致は目に見えますが、現実におこる偽善はそうなかなか欲の面を行動に移すとは思えません。
例えば、周りから良い人だと思われたくて人を助けたとします。これは偽善ですが、周りの人は内心の「周りから良い人だと思われたい」に気づきません。
では、どうやって周りの人は偽善者だと決めるのでしょう?
えぇ…わかんない…
これを調べたものがあるので、一緒に見てみましょう!
周りが偽善だと決められたのは「人が助けを断ったのに助けるのは、観察者に自分の善行をみせるためでは?」と思うからですね。
ということは、どうやら私たちが偽善だと決める方法の一つは、「善行を行っている時周りに人がいるかどうかで判断する」のようです。
周りに人がいたらすこし見せつけたくなる気持ちもわかる気がする…。
私は偽善を周りの人がいるかどうかで決めることが多いといいましたが、結局は人それぞれなんです。
確かに、人にはそれぞれ意見があるからなぁ。
だからこそ、いろいろな偽善と判断する考え方を知ることが大切なんです。