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 美濃和紙の起源は正確には明らかになっていません。しかし奈良の正倉院にある日本でもっとも古いとされる戸籍用紙が残っており、その用紙に美濃、筑前、豊前の3カ国の紙が使われていたことから、少なくとも702年(大宝二年)には存在していたとされています。
 
 
 
 
 この頃、和紙の需要は今までと比べ増加しはじめました。背景には、仏教の興隆、経典や経文の需要の増加があります。美濃和紙は都での評判が極めて高く、京都の上層階層者たちは縁故を頼って美濃和紙を求めたと言われています。
 そして朝廷から製紙用の役人が派遣されて、宣命紙等の色紙や公用紙も生産していました。
 
 
 
 
 美濃和紙がもっとも多く京都に進出したのは応仁・文明の頃で、商工業の発達とともに美濃和紙業も急速な発展をしたと考えられています。市内大矢田の紙商人は、京都にある領主の宝慈院に対し毎月6回の紙荷の年貢を納入していました。さらに美濃国守護である土岐氏が富国強兵のため産業開発を促進し製紙業を後押ししたため、日本各地に伝播され流通しました。
 
 
 
 
 江戸時代になっても美濃和紙は受け継がれましたが、紙漉き業は専売制度の下に特産品として育成され、みだりに免許されることはありませんでした。また、町人層の需要拡大によって大量生産がされ、特に障子紙として使用されるようになりました。さらに美濃判として障子の規格にもなりました。このため、「みの」と言えば障子のことを指すようになるまで普及しました。
 
 
 
 
 紙の需要が高まり機械抄きの導入がされたことによって、昭和30年代には1200戸あった生産者数が昭和40年には500戸に激減し、その後も減少を続け、昭和60年には40戸となりました。現在は美濃手漉き和紙協同組合が設立され、 伝統技術を受け継いでいくと同時に新しい改良を加えたりして、この技法を後世に残すよう努力を続けています。それもあってか、昭和60年には通商産業大臣(現在の経済産業大臣)から伝統的工芸品に指定されました。
 
 
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