<2014.12.22.チーム170236制作>

つちぐも 【土蜘蛛】

別 名
出没地 御所市、郡山市
容 姿 ○高天彦神社(御所市)の前の並木の東側に土蜘蛛のいる窟があり、千本の足をもっていた。時の天皇の勅使が矢を射て殺したが、その土蜘蛛は高天彦神社の傍らに埋め蜘蛛塚といった。(※1)
○外川(郡山市)の土蜘蛛は、毒をもつ大きな牙をガチガチならして、真っ赤な舌をペロペロ出し、銀色の太い糸をパッと吹きかける。(※2)
出没方法 ○昔、神武天皇がカツラで網をもって土蜘蛛を捕え、これを頭と胴と足と3つに切って別々に今の神社(一言主神社)の境内に埋め、その上に巨石を置かれたたという。(※3,5)
○昔、大きなクモが毎夜付近を荒らしまわったので、一言主ノ命がこれを退治した。その牙があまりに大きいので取っておいて、死骸は田の中に埋めた。命がクモ退治に用いた剣やクモの牙は、今でも一言主神社の宝物として永久に保存することにしたという。(※3,5)
事 例  法師に身をやつした土蜘蛛の精が源頼光を襲うが、失敗して姿を消す。頼光の部下たちは、傷を負った土蜘蛛の血の跡をたどり、化け物の巣とおぼしき古塚をつきとめる。土蜘蛛は「我こそは大昔から長い間、葛城山に潜んでいた土蜘蛛の精だ」と名乗る。蜘蛛の化け物は、たくさんの糸を繰り出し投げてくるので、蜘蛛の糸が手足にまとわりついてきた。しかし、土  蜘蛛の逃げ場をふさいで取り囲み、大勢で襲いかかって、ついに土蜘蛛の首を切り落とした。(※4)
アクセス
御所市高天 (外部のページへ)
原風景
高天彦神社(御所市)の南に、土蜘蛛のいたとされる「蜘蛛窟」の碑があります。
 
一言主神社境内にある「蜘蛛塚」   「蜘蛛窟」碑
<2014.11.15.チーム170236撮影>
考 察 【性格・生まれてきた背景】
 『古事記』によると、神武天皇の時代、大和地方には「尾生いたる」先住民があちこちにいて、岩を押し分けて出てきたなどという記述もあります。その先住民に向けられた蔑称の1つが「土蜘蛛」で、神武天皇に逆らってなかなか言うことを聞かなかったと想像されます。最終的に、神武天皇軍は、巧みな方法で土蜘蛛先住民を皆殺しにしてしまいます。そうした神話が、妖怪土蜘蛛の原点にあるのだと考えられます。 
【実体・モデル】
 「ツチグモ」という名前のクモは、日本にはいないようです。大和地方で起こった不可解な事件や事故を、その昔は、土蜘蛛族の怨霊の仕業としたのでしょうか。
【現代人との係わり・存在感】
 『御所市史』に記されている高天彦神社(御所市)近くの「蜘蛛のいた窟」は、神社の南に建てられた「蜘蛛窟」碑で目にすることができます。ここには、洞窟らしきものはありません。石碑の裏側には、「皇紀二千六百年神武天皇聖蹟顕彰」と刻印があり、1940年(昭和15年)の神武天皇即位紀元2600年を祝った一連の行事の中で建立されたものと考えられます。一方、一言主神社(御所市)境内には「蜘蛛塚」があり、神武天皇が捕えた土蜘蛛を埋めたところとしているようです。
 また、能楽の演目に「土蜘蛛」というのがあり、大和の妖怪として演じられています。
参考文献 ※1)御所市史編纂委員会『御所市史』(S40.3.10.御所市役所)
※2)奈良のむかし話研究会編『読みがたり・奈良のむかし話』(S52.9.1.日本標準)
※3)奈良県史編纂委員会『奈良県史13民俗(下)』(S63.11.10.名著出版)
※4)謡曲「土蜘蛛」
※5)編集:奈良県童話聯盟、編纂:高田十郎『大和の傳説』(S8.1.15.大和史跡研究会)