ジュリアーノ・ディ・メディチ
(Giuliano de' Medici)(1453年 - 1478年)
美しき貴公子ジュリアーノ
豪華王ロレンツォの弟で、「イル・ベッロ=美しきもの」と呼ばれるほどの長身の美男子でした。性格は気さくで陽気、次男という自由さもあってフィレンツェの娘たちの憧れの的だったといわれてます。
フィレンツェとヴェネツィアとミラノが防衛同盟を結び、その祝いとしてサンタクローチェ教会前で行われた「馬上槍試合」にメディチの貴公子ジュリアーノは出場します。その大会の女王に選ばれたのが、シモネッタ・ヴェスプッチ(1453〜1476)です。美男と美女のロマンスはフィレンツェの人々の注目となりました。しかしその翌年、シモネッタは病死してしまいます。
ローマ教皇シスト4世は反メディチを表わし始めます。ナポリと同盟を結び、法王庁の財務担当をメディチからパッツィ銀行に移し、ロレンツォとジュリアーノの暗殺をパッツィ家と企てます。
1478年4月26日復活祭の日にサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会でミサに参列中のロレンツォとジュリアーノを刺客が襲います。ロレンツォは寸前のところで逃げましたが、ジュリアーノは全身を刺され非業の死を遂げてしまいます。悲しみを怒りに変えたフィレンツェ市民はロレンツォの指示の元に報復として、暗殺に加担したパッツィ家を中心にサルヴィアーティ大司教まで70名を殺害しました。
この報復に対し、法王シスト4世は怒り、ロレンツォの追放を要求。ナポリ王フェランテ1世との連合軍をフィレンツェに送り、戦争へと進んでいきました。