メディチ家

ジョバンニ

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ロレンツォ

ジュリアーノ

ジョバンニ
(レオ10世)

ジュリオ
(クレメンス7世)

 

ジュリオ・ディ・メディチ、クレメンス7世
(Giulio de' Medici、Clemens VII)(1478年 - 1534年)

悲劇の教皇

 1523年〜1534年の間ローマ教皇に即位していたクレメンス7世は、メディチ家の出身で本名はジュリオ・ディ・メディチといいます。パッツィ家の陰謀で殺害されてしまったジュリアーノ(ロレンツォ豪華王の弟)の子供で、レオ10世(2代前)のいとこに当たります。
 芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿(ローマ教皇庁のナンバー2)時代にラファエッロを引き立て、1520年、マキャヴェリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼しました。後に天文学者コペルニクスの研究も支援しました。
 クレメンス7世は、レオ10世のもとで枢機卿として力を発揮していましたが、1527年、ドイツ皇帝カール5世のローマへの侵攻でサンタンジェロ城にて降伏、捕らわれの身となってしまいました。この事件を「ローマ略奪」といいます。その後、クレメンスはカール5世と和解し、カール神聖ローマ帝国皇帝の戴冠(皇帝になるための儀式)を行いました。これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦争は続きますが、神聖ローマ帝国の優位がほぼ確実でした。この間メディチ家のアレサンドロ(クレメンスの庶子)は教皇の支援のもとにフィレンツェを支配していました。ローマ略奪のニュースが伝えられるとクレメンス7世はフィレンツェから一時追い出されてしまいました。しかし1530年に神聖ローマ帝国の支援により復帰し、1532年にフィレンツェ公国を建国しました。クレメンス7世は、ルターの宗教改革という事態に対して何も有効な手が打てませんでした。それはメディチ家の権利と利益を守ることに終始したのが原因と言われています。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の制作を依頼しましたが、ミケランジェロが実際に『最後の審判』を完成させたのは1541年でクレメンスの死後でした。
 クレメンスは時代の激しい荒波にもまれた「悲劇の教皇」でした。しかしクレメンスがローマの破滅を招いたため、クレメンスの死を悲しむ者は誰もいなかったといいます。

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