大分市の歴史と文化
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大分の史跡探訪 > 府内城跡
◆府内城跡(大分城址公園)
(ふないじょうあと・おおいたじょうしこうえん)


▲西南隅の二重櫓より南側を望む


所在地:大分市荷揚町(Googleマップを表示)
駐車場:あり(公園内または市役所駐車場を利用)
アクセス:JR大分駅から徒歩10分
大分バス・大分交通「大分市役所合同新聞社前」バス停下車すぐ


府内城は、1597(慶長2)年に府内入封した福原直高によって築城が始められた城で、江戸時代になり府内藩主となった竹中重利によって天守閣修理などがなされ完成しました。大分の武将といえば何と言っても大友氏ですが、大友氏は1593年に改易により府内を離れているので、府内城と大友氏は全く関係がないので注意が必要です(大友氏の居館は大友氏館)。
築城を始めた福原直高は元々12万石で入封したため、府内城は非常に壮大な造りとなっていました。その後直高が臼杵に転封されると、代官であった早川長敏が城主となり、江戸時代からは府内藩主となった竹中重利が入城し、城をほぼ完成させました。城主は以降、竹中重義、日根野吉明と代々藩主が務め、1658(明暦4)年以降は松平氏が10代で統治すると、城は明治維新まで存続しました。
しかしながら、1707(宝永4)年の大地震で一部建物が大破し、加えて1743(寛保3)年には多くの建物を焼失する大火災が起こり、このときに天守閣も失われるなど、城は甚大な被害を受けます。さらに明治維新以降は二の丸、三の丸が破却され本丸のみとなり、1945(昭和20)年には大分大空襲で残った建物も多くを焼失してしまいました。現在も天守閣は再建されていないものの、大手門や櫓、廊下橋などが復元されており、往時の雰囲気を味わうことができます。
なお、城内には1872(明治5)年から1962(昭和37)年まで大分県庁が置かれ、移転後は1966(昭和41)年に大分文化会館が建設されました(2013年閉館)。

府内城跡・大分城址公園地図(2013年現在)

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※築城当時の城内図はこちら



A.大手門(多聞櫓門・たもんやぐらもん)


現在の府内城址の玄関口。タイトルには括弧書きで書きましたが、「多聞櫓門」が正式な名称です。大分大空襲で消失し、1965年に復元。



B.宗門櫓(しゅうもんやぐら)

人質櫓と共に府内城の数少ない遺構の一つ。現在の建物は1854(安政元)年に再建されたもので、築城当初の規模・工法を引き継いで建てられたと考えられています。
外側から見ると左写真のように単なる平櫓(1層)に見えますが、内側に回ってみると右写真のように右半分は石垣に食い込むような形で2層になっているという独特の構造をしています。これは、この部分に櫓台を設けなかったために採られた工法です。


C.天守台(てんしゅだい・天守閣跡)

府内城の中心となる建物として、1602(慶長7)年に竹中重利により4層式・高さ約16mの天守閣が築かれましたが、1743(寛保3)年の大火災により焼失。それ以降天守閣は再建されることなく、現在は天守台の石垣のみが往時の面影を留めています。
ちなみに天守台には登頂可能で、城内の様子が一望できます。




D.お宮の祠


天守台の西側の下に、福原直高の娘であるお宮を祀った祠(ほこら)があります。
直高が築城の際、度重なる水害に悩まされ、完成を願って人柱を立てることとし、孝行娘であったお宮は一家を救うためにも弁財天の木造を抱いて人柱となりました。それ以降、城の建築は順調に進み、それによりお宮は城の鎮守として崇められたという逸話があります。



E.人質櫓(ひとじちやぐら)

宗門櫓と共に残る江戸時代からの建物で、現在の櫓は1861(文久元)年に再建されたものです。その名の通り、実際に人質を収容していたと言われています。


F.冠木門(かぶきもん)跡


西の丸跡から廊下橋に至る通路の間には、かつて「冠木門(かぶきもん)」という、柱の上に横木を渡しただけの屋根のない門があり、両サイドにある石はその礎石です。





G.廊下橋


かつて西の丸と山里丸(現在の松栄神社)を結んでいた渡り廊下を、新・大分市発足30周年記念事業の一環として、1996(平成8)年に復元したものです。ベースとなったのは大手門の廊下橋で、内部まで忠実に再現されています。利用時間は8:00〜18:00まで。
上写真が外からの様子、下写真が内部の様子です。





H.慶長の石垣

上欄の廊下橋復元に伴う発掘調査の際に見つかった石垣で、その名の通り府内城築城当時の石垣です。
現在松栄神社が建っている部分はかつて山里丸と呼ばれた、茶の湯や能、お月見といった芸能が営まれた場所で、この石垣はそれを囲んでいたものです。


I.松栄神社
松栄神社は、1729年(享保14)年に6代府内藩主・松平近儔(まつだいらちかとも)によって近正八幡宮として現在と同じ場所に建てられ、1799(寛政11)年に松栄山(現在の大分県護国神社の社地)に遷宮し、近正大明神となり、4年後には、栖克(すみよし)大明神に三たび改称されました。
明治になり、松栄山の名にちなんで松栄神社とし、1885(明治18年)に堀川町(現在の都町、現・みずほ銀行)に遷宮したのち、1900(明治33)年に現在の場所に遷っています。
現在の社殿は1968(昭和43)年に再建されたものです。



J.竹中重利の墓


1601(慶長6)年に府内藩主となり、府内城を完成させ府内の町の発展基盤をつくった竹中重利(たけなかしげとし)の墓が松栄神社横にあります。

築城当時の府内城城内図(現地案内看板より)



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