大分市の歴史と文化
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大分が誇る偉人 > 大友宗麟
 

▲大分駅前にあった宗麟像

大友 宗麟(おおとも そうりん)

本名:大友 義鎮(おおとも よししげ)
別名:休庵宗麟、ドン・フランシスコ(キリスト洗礼名)など
生没年:享禄3(1530)年1月3日−天正15(1587)年5月6日
出生地:豊後国府内(大分市)
死没地:豊後国津久見(大分県津久見市)

(注)左写真の大分駅前の宗麟像は、駅前広場整備工事に伴い現在撤去中。

宗麟の生涯宗麟ってどんな人物?宗麟とキリスト教


宗麟の生涯
 宗麟は1530年、室町時代の後期に、大友氏第20代当主・大友義鑑(おおとも よしあき)の子として豊後国府内(大分市)に生まれました。

 1550年、宗麟の異母弟にあたる大友塩市丸(おおとも しおいちまる)を後継者に立てようとしていた父・義鑑らが暗殺されるという二階崩れの変が起こると、宗麟は家督を継ぎ、第21代当主となります。しかし、その後も塩市丸を推していた一部の家臣が宗麟の暗殺を計画するなど、家内は不安定な状況が続きました。

 そのような状況の中でも、周防・長門(すおう・ながと、現在の山口県)や博多(はかた、現在の福岡県)を支配していた大内氏の滅亡後、一族を当主として送り、また肥後(ひご・現在の熊本県)の菊池氏を1554年に滅亡させて支配するなど、勢力を拡大します。そして、1559年には幕府の信任を得て九州探題にも就任するなど、権力も確立していきました。この直後に出家し、休庵宗麟(きゅうあんそうりん)という法号を得て、これが現在よく知られている宗麟の名のもとになります。

 しかし1570年、今山の戦いで肥前(ひぜん・現在の佐賀・長崎県)の龍造寺(りゅうぞうじ)氏に敗れ、肥前国の征服に失敗してしまいます。この後に長男の大友義統(おおとも よしむね)に家督を譲り隠居を始め、1577年にはキリスト教の洗礼を受け洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗りました。しかし同年に薩摩(さつま・現在の鹿児島県)の島津義久が日向(ひゅうが・現在の宮崎県)に侵攻すると、宗麟も出陣しますが大敗を喫し、多くの家臣を亡くしてしまいます(耳川の戦い)。その後も領地内の武将らの反乱や、島津氏の九州全体への勢力拡大で衰退の一途をたどり、特に1586〜87年の島津氏による府内攻略の際は、大友氏の滅亡寸前まで追い詰められました。後に島津氏は豊臣秀吉らによる九州征伐により降伏していきますが、宗麟は病にかかり、1587年に津久見の隠居地で58歳で死去しました。





▲出家した頃の宗麟





▲府内城跡にある大友宗麟胸像
(キリスト洗礼後の姿)

大友宗麟ってどんな人物?
 宗麟の本拠地であった府内の地で、全国でもいち早く西洋の南蛮文化が栄えたことからも分かるように、文化の受容には積極的で、文化活動も活発であったと言われています。

 48歳でキリスト教の洗礼を受ける以前から、茶道や能など、当時の最先端であった室町文化に通じ、京都や大坂などから文化人らを府内に招いていました。実際に、1571年には当時の画家の中心であった画派、狩野派の狩野永徳(かのう えいとく)を招き、当時宗麟が隠居していた臼杵丹生島城(うすきにぶじまじょう)の障壁画を描かせたという記録が残っています。また、領地とした博多の商人と交友し、日明貿易(現在の中国との貿易)や日朝貿易(現在の韓国との貿易)も行っていましたが、貿易を行っていた他の大名とは異なり、輸入品の多くは嗜好品の茶器や書物であったことからも、宗麟の文化・芸術への強い関心が伺えましょう。

 しかしながら、幼いころの宗麟は先述のイメージとは程遠く、学問や読書をひどく嫌い、狩りや剣術などに精通し、また自分の気に入った家臣だけを側に据え、かたや嫌いな者は殺害までしていたなど、暴君的性格そのものであったと言われています。このような事態をみて、父である義鑑(よしあき)は当初、長男である宗麟ではなく、弟の塩市丸に家督を継がせようとしたようです。当主となった後も、家臣の妻を横取りして宴会を開いたり、キリスト教徒となって以降は日向(ひゅうが)国の神社仏閣を徹底的に破壊するなど、粗暴な性格を伺わせる行動も見られます。しかし一方で、キリスト宣教師ルイス・フロイスの書などでは穏和さを伺わせる記述もあるなど、かなりむらのある性格であったようです。

宗麟とキリスト教
 大友宗麟といえば、まず浮かんでくるイメージは「キリシタン大名」という方も多いと思います。
 宗麟がキリスト教と出会ったのは1551年、日本にキリスト布教のために来航していたスペイン人宣教師、フランシスコ・ザビエルを日本での最終布教地として豊後に迎えたことがきっかけでした。新しい文化の受容に積極的であった宗麟は、この時点で自らは洗礼を受けなかったものの、布教活動を保護し、またポルトガル船を来航させてヨーロッパの先端文化を取り入れる南蛮貿易を行い多大な利益をあげ、日本で初めて西洋医術や演劇、西洋音楽などを取り入れ、さらに聖職者養成機関であるコレジオを設置するなど、府内を九州最大の城下町に、さらに日本でも最大級の南蛮貿易の拠点へと押し上げました。その繁栄ぶりは、日本に来航する宣教師らが宗麟を「」と崇めていたことからも伺えます。その後、宗麟自身も1577年に宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受けています。1582年には、同じ九州のキリシタン大名である大村純忠(おおむら すみただ)や有馬晴信(ありま はるのぶ)と共に少年4人らを名代として天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)としてローマ教皇のもとに派遣しています。

 一方で、キリスト教を保護したことで家臣らが反乱を起こし、さらに領地内、特に「キリシタン王国」の造営を目論んでいた侵略先の日向国では神社や仏閣の破却や焼き討ちを徹底して行い、大友家に代々伝わっていただるまも破壊するなどの行為は、後に領地内の武士らの反乱を多発させる原因ともなりました。宗麟の家督を継いだ息子の義統(よしむね)も、本拠である豊後国の寺社の破却を主導していたと言われていますが、義統はのちに豊臣秀吉のキリスト禁教令により棄教し、秀吉の政策もあって府内の南蛮文化は徐々に衰退し始めます。さらに義統は1593年の朝鮮出兵の際に無断で引き返したことにより領地である豊後国を没収されたため、長く続いた大友氏支配の時代も終わりを迎えることとなりました。









▲府内で栄えた南蛮文化
(写真は西洋音楽発祥記念像)


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