瀧廉太郎は1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘(たきよしひろ)の長男として東京府芝区南佐久町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれます。滝家は江戸時代、日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄であり、 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市等を移り住んだため滝は5回の転校を繰り返したといいます。
1894年(明治21年)に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入った瀧は1898年に本科を卒業した後、研究科に進んで作曲とピアノ演奏で才能を伸ばし、また1900年10月7日には東京市麹町(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エビスコバル・チャーチ(博愛協会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、ジョン・マキムから堅信礼を受けます。
1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学しピアノや対位法(複数の旋律をお互いに美しく響かせたいときに用いられる)を学びますが、わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、その後は父の故郷である大分県で療養していましたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で23歳という若さで亡くなりました。
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