大分市の歴史と文化
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大分が誇る偉人 > 瀧 廉太郎
 

▲瀧廉太郎(20歳頃?)


瀧 廉太郎(たき れんたろう)

生没年:1879(明治12)年8月24日−1903(明治34)年6月29日
出生地:東京府芝区(現:東京都港区)
死没地:大分市稲荷町(現:府内町)

瀧廉太郎の生涯瀧廉太郎と作曲


瀧廉太郎の生涯

瀧廉太郎は1879年(明治12年)824日、瀧吉弘(たきよしひろ)の長男として東京府芝区南佐久町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれます。滝家は江戸時代、日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄であり、 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ大久保利通伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県富山県富山市大分県竹田市等を移り住んだため滝は5回の転校を繰り返したといいます。

1894年(明治21年)に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入った瀧は1898年に本科を卒業した後、研究科に進んで作曲とピアノ演奏で才能を伸ばし、また1900107日には東京市麹町(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エビスコバル・チャーチ(博愛協会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、ジョン・マキムから堅信礼を受けます。

 1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツにあるライプツィヒ音楽院に留学しピアノや対位法(複数の旋律をお互いに美しく響かせたいときに用いられる)を学びますが、わずか2ヶ月後に肺結核を発病し1年で帰国を余儀なくされ、その後は父の故郷である大分県で療養していましたが、1903年(明治36年)629日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で23歳という若さで亡くなりました。



▲遊歩公園(大分市)にある
瀧廉太郎像



▲瀧が逝去まで過ごした自宅跡
瀧廉太郎と作曲

 瀧の代表作である、「荒城の月」は、文部省編纂(へんさん)の「中学唱歌」に掲載され、1900年(明治33年)8月に作曲された人気の高い曲のひとつである「花」は、4曲からなる組曲『四季』の第一曲となっています。ちなみに『四季』は滝の22歳のときの作曲で、邦人が作曲した初めての合唱曲です。日本生まれの最も古い童謡作品として知られる「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などは、1900年に編纂された幼稚園唱歌に収められており、「荒城の月」はベルギーにあるシュヴトーニュ修道院で行われる典礼でメロディーが聖歌として使われています。

 このような活躍の一方で、生涯結核と闘ってきた瀧は、その苦しみやつらさが作品に現れていると思われるものもあります。特に瀧が最後に作った「憾み(うらみ)」という作品には歌詞が無く、悲しげなメロディーが特徴です。一説には、今まで自分を邪魔してきた人達に対するうらみを曲にしたのではないかと言われています。なお、瀧の晩年残した作品は、結核菌が付いているという理由で死後その多数が焼却されたといいます。






▲「荒城の月」のモデルとなった
岡城跡(大分県竹田市)

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