二十一番目の作者
名前:素性法師(そせいほうし)
生没年:未詳
性別:男性
出展:「古今集」
   経歴:良岑玄利といい、僧正遍照の子です。早くに出家した、と
     いわれています。宮中に出仕し左近衛将監になったとつた
     えられています。また、宇多天皇と何らかのつながりがあっ
     た、ともいわれています。



二十二番目の作者
名前:文屋 康秀(ふんやのやすひで)
生没年:未詳
性別:男性
出展:「古今集」

   経歴:六歌仙の一人です。文屋朝康は彼の子です。官人としては、
     卑官で一生過ごしたといわれています。小野小町と親密な関係
     あったといわれていますが、はっきりしたことは分かっていません。



二十三番目の作者
名前:大江 千里(おおえのちさと)
生没年:未詳
性別:男性
出展:「後撰集」

  経歴:学者であった大江音頭の子です。(異説もある。)大学に学ん
    だ儒学者であるが、漢詩があまり残っていません。894年(寛平
    6年)に宇多天皇の勅命で歌集「句題和歌」を撰進しました。この
    人の歌は儒家風でした。



二十四番目の作者
名前:菅家(かんけ)
生没年:845年〜903年
性別:男性
出展:「古今集」

  経歴:平安時代の公卿で、菅原道真のことです。 和歌や漢詩の
    才能があり、また学問も秀れていました。894年(寛平6年)に
    遣唐使中止を建言しました。また、天皇の信任も厚く従二位
    にまで昇進しました。しかし、藤原氏の訴えにより、大宰府に
    左遷されてしまいます。結局、失意の内に大宰府で没してしま
    いました。死後、怨霊になったという伝説がありますが、学問
    の神様として祭られています。



二十五番目の作者
名前:三条右大臣(さんじょううだいじん)
生没年:832年〜932年
性別:男性
出展:「後撰集」

  経歴:藤原実方といいます。924年に右大臣に就任します。屋敷が
    三条にあったので、「三条右大臣」と呼ばれるようになりました。
    藤原朝忠はこの人の子どもにあたります。実方は和歌や音楽など
    に堪能していたとつたえられています。



二十六番目の作者
名前:貞信公(てんしんこう)
生没年:880年〜949年
性別:男性
出展:「拾遺集」

  経歴:本名を藤原忠平といい、藤原基経の四男です。宇多天皇
    に信頼され、その皇女順子を室としました。朱雀天皇が即位
    すると摂政・関白になり、村上天皇が即位すると関白に留ま
    りました。藤原氏が、文化・政治の両方で強い力を持つ基礎
    を作った人です。



二十七番目の作者
名前:中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ)
生没年:877年〜933年
性別:男性
出展:「新古今集」

  経歴:藤原兼輔といい、藤原基利基の子です。紫式部はこの人の、
    曾孫にあたります。930年に中納言になり、屋敷が加茂川堤(
    かもがわつづみ)の近くにあったので、「堤中納言」と呼ばれま
    した。従兄弟の藤原定方と共に、歌壇の中心人物であり多くの
    歌人が集りました。紀貫之や凡河内躬恒などもその庇護を受け
    ました。



二十八番目の作者
名前:源宗于朝臣(みなもとのむねゆきのあそん)
生没年:???年〜939年
性別:男性
出展:「古今集」

  経歴:光孝天皇の孫にあたり父は、皇子是忠親王です。894年(寛平6
    年)に臣籍にくだりましたが、官位は上がらず、正四位下右京大夫
    が最高でした。「大和物語」には、不遇をなげく話が伝わっています。
    紀貫之と交流がありました。



二十九番目の作者
名前:凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
生没年:生没年未詳
性別:男性
出展:「新古今集」

  経歴:家系も生没年も不詳です。上流階級の出身ではなかった
    ために、地方国府の役人を歴任しました。しかし、歌歴では、
    早くから紀貫之と共に高い評価をされてきました。また、いつ
    も宮廷にいて歌を作り、貴族の依頼に応じて歌を作りました。
    紀友則、紀貫之、壬生忠岑らと共に、「古今集」を編集しました。



三十番目の作者
名前:壬生忠岑(みぶのただみね)
生没年:未詳
性別:男性
出展:「古今集」

  経歴:卑官の家に生れ、一生官位は上がらず役人としてはとても
    不遇でした。しかし、歌人としては早くから有名で、ほとんどの
    歌合せに列席していました。また、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒
    らと共に「古今集」の編集をしました。





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