三十一番目の作者
名前:坂上 是則(さかのうえのこれのり)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「古今集」
   経歴:8世紀に奥州平定をした坂上田村麻呂の子孫です。少内記、
     大内記などを経て、924年(延長2年)に、従五位下加賀介に至
     ります。和歌の行事には、ほとんど出詠しました。当時を代表す
     る歌人です。また、蹴鞠の名人だと伝えられています。



三十二番目の作者
名前:春道 列樹(はるみちのつらゆき)
生没年:???年〜920年
性別:男性
出典:「古今集」

   経歴:経歴のほとんどが不明で、はっきりしません。910年に文章生
     となり、その十年後の920年に壱岐守となりました。そして、任地
     に赴く前に亡くなった、といわれていますが、はっきりしたことは、
     わかっていません。また、この人の作った歌もほとんど残ってい
     ません。



三十三番目の作者
名前:紀 友則(きのとものり)
生没年:???年〜905年
性別:男性
出典:「古今集」

  経歴:紀貫之の従兄弟で、紀有友の子です。40歳の時まで、無官だっ
    た、といわれていました。紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑らと共に
    「古今集」の編集をした一人ですが、完成前に亡くなったと思われ
    ます。歌人としての才能は十分にありました。



三十四番目の作者
名前:藤原 興風(ふじわらのおきかぜ)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「古今集」

  経歴:平安時代の歌人で、「歌経標式」という歌学書を著した藤原
    浜成という人の曾孫で、藤原道成のこです。紀貫之や大河内躬
    恒などと才能を競いあった、といいわれています。官位は低かっ
    たのですが、歌人として、風流を解する人として、認められていま
    した。また、音楽にも堪能だったと伝えられています。。



三十五番目の作者
名前:紀 貫之(きのつらゆき)
生没年:868年頃〜945年
性別:男性
出典:「古今集」

  経歴: 平安時代前期〜中期の歌人で、若い頃から歌の才
    能を認められました。905年(延喜5年)に凡河内躬恒、
    壬生忠岑、紀友則とともに「古今集」の撰者をつとめま
    した。また、930年(延長8年)に土佐(現高知県)に土佐
    守として赴任し、その帰途をつづったのが、有名な「土
    佐日記」です。
    



三十六番目の作者
名前:清原 深養父(きよはらのふかやぶ)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「古今集」

  経歴:清原元輔の祖父で、清少納言の曾祖父にあたり、父は
    清原房則の子です。官職はあまり恵まれませんでしたが、
    歌人としては評価は高かったそうです。また、琴も堪能で、
    紀貫之、藤原兼輔、凡河内躬恒らと親交がありました。晩年
    は京都に補陀落寺を建立しました。
    



三十七番目の作者
名前:文屋 朝康(ふんやのあさやす)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「後撰集」

 経歴:文屋康秀の子にあたります。あまりはっきりした記録は残って
    いません。ただ、902年に大舎人大允となったのは確かです。こ
    の他には、詳しい伝記は伝わっていません。また、朝康の作った
    和歌そこそこの評価をされました。



三十八番目の作者
名前:右近(うこん)
生没年:不詳
性別:女性
出典:「拾遺集」

  経歴:系譜や生没年などは、あまりはっきりしていません。後醍醐天皇
    の皇后穏子女房(女官のことです)を勤めました。詳しいことは、良
    く分かりませんが「大和物語」や、「拾遺集」に載っている話から、藤
    原朝忠、貞信公の子の藤原師輔や三条右大臣の子にあたる三条
    朝忠らと交流がありました。



三十九番目の作者
名前:参議等(さんぎひとし)
生没年:880年〜951年
性別:男性
出典:「後撰集」

  経歴:中納言源希(みなもとのまれ)の子で、源等といいます。嵯峨天皇
    の子孫の一人です。899年に近江介という役職につきました。その後、
    昇進が続き、947年には参議になりました。しかし、等は役人としての
    経歴は、はっきりしていますが、歌人としての経歴はあいまいで、現在
    確認されているものは、4首しか残っていません。



四十番目の作者
名前:平 兼盛(たいらのかねもり)
生没年:???年〜990年
性別:男性
出典:「拾遺集」

  経歴:光孝天皇の子孫で、父は平篤行です。950年に平の姓を頂いて、
    臣籍に下りました。しかし、官位は低くなかなか、昇進出来ませんで
    した。しかし、歌人としては、その才能を早くから認められていました。
    「天徳内裏歌合」での、壬生忠岑との勝負は有名です。大臣能宣や、
    源重之らと交流がありました。





TOP

NEXT

BACK

INDEX