四十一番目の作者
名前:壬生 忠見(みぶのただみ)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「拾遺集」
経歴:壬生忠岑の子です。官位はとても低かったのですが、歌人として
は有名で、多くの歌合に出詠しており、活躍しました。しかし、「天
徳内裏歌合」の最後の勝負で、平兼盛の歌に敗れてしまい、その
せで、悶死したとつたえられています。
四十二番目の作者
名前:清原 元輔(きよはらのもとすけ)
生没年:908年〜990年
性別:男性
出典:「後拾遺集」
経歴:清少納言の父で、清原深養父の孫です。951年(天暦五年)に梨壷
の5人のうちの一人に選ばれました。「万葉集」の訓読、「後撰集」の
撰集などにあたりました。「今昔物語集」などには、明朗な人柄を伝え
る逸話が多く残っています。
四十三番目の作者
名前:権中納言 敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)
生没年:906年〜943年
性別:男性
出典:「拾遺集」
経歴:藤原敦忠といい、藤原時平の三男です。939(天慶二年)年
に参議になり、942年には、権中納言にまでのぼりつめました。
枇杷中納言、本院中納言と呼ばれていました。美貌で、性格も
良く、和歌や管弦にも堪能だったといわれています。
四十四番目の作者
名前:中納言 朝忠(ちゅなごんあさただ)
生没年:910年〜966年
性別:男性
出典:「拾遺集」
経歴:三条右大臣定方の五男です。一説には909年生れとも言われ
ています。952年に参議、963年には従三位中納言に至りました。
土御門中納言とも呼ばれていました。また、この人は、歌人とし
ての実力は安定していた、といわれています。
四十五番目の作者
名前:謙徳公(けんとくこう)
生没年:924年〜972年
性別:男性
出典:「拾遺集」
経歴:藤原伊尹(ふじわらこれただ)ちいいます。藤原師輔(ふじわら
もろすけ)の長男です。960年(天徳4年)に参議に、970年(天禄
元年)には右大臣になります。そして、同年には円融天皇の摂政
となり、翌年には、太政大臣になります。没後、正一位が贈られま
した。また、伊尹は歌の才能が秀れていて、「後撰集」の撰者の一
人です。
四十六番目の作者
名前:曽禰 好忠(そねのよしただ)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「新古今集」
経歴:平安中期の歌人ですが、生没年や系譜は不詳です。また、官職
もはっきりしませんが、”曾丹後”などと呼ばれていました。和歌の
新形式である、百首歌を創始しました。また、当時を代表するような、
大中臣能宣、源順、源重之などと交流がありました。後の新古今歌
風を引き出す先駆けを作りました。
四十七番目の作者
名前:恵慶法師(えぎょうほうし)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「拾遺集」
経歴:俗姓や系譜、生没年などは、分かっていません。播磨国分寺
講師を勤めていました。大中臣能宣、紀時文、平兼盛らと交流
がありました。また、多くの貴族たちと交友関係が存在していま
した。また、幅広い貴族たちと交流していました。
四十八番目の作者
名前:源 重之(みなもとのしげゆき)
生没年:???年〜1000年頃
性別:男性
出典:「詞花集」
経歴:源兼信の子で、伯父源兼忠の子の養子になりました。しかし、あまり
官位には恵まれず、976年(貞元元年)に相模権守になり、晩年は陸奥
守藤原定方に随行して、奥州に下向し、当地で没しました。この人の和
歌は、自分の不幸を嘆く歌などが多く残っているそうです。
四十九番目の作者
名前:大中臣能宣朝臣(おおなかのよしのぶのあそん)
生没年:921年〜991年頃
性別:男性
出展:「詞花集」
経歴:父子三代祭主の家柄に生れ、父は、大中頼基です。正四位下
祭主神祗大副という、官位につきます。951年(天暦五年)に、梨
壷の5人の一人に選ばれ、「万葉集」の訓読、「後撰集」の撰集にあ
たりました。また、冷泉・円融・花山天皇の時代に活躍し、多くの功
績を残しました。
五十番目の作者
名前:藤原 義孝(ふじわらのよしたか)
生没年:954年〜974年
性別:男性
出展:「後拾遺集」
経歴:藤原伊尹の子で、能書家として有名な、藤原行成の父親です。
21歳という若さで、疱瘡にかっかてしまい亡くなってしまいました。
義孝はとても道心深い人物だったといわれています。この短い人生
のなかで、義孝は「義孝集」という歌集を残しています。
TOP
NEXT
BACK
INDEX