五十一番目の作者
名前:藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)
生没年:???年〜998年
性別:男性
出典:「後拾遺集」
   経歴:991年に右近中将にい、994年左近中将と昇進していきました
     が、翌年に陸奥守に左遷されました。源重之はこの時に実方に
     従って、共に陸奥に下向しました。左遷の理由は藤原行成との
     関係が悪化していしまったと伝えられました。



五十二番目の作者
名前:藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)
生没年:972年〜994年
性別:男性
出典:「後拾遺集」

   経歴:太政大臣藤原為光の子です。986年に一族の藤原兼家
     の養子になりました。しかし、23歳という若さで亡くなってし
     まいました。和歌の才能があっただけに、その才能が惜し
     まれました。藤原公任や藤原実方といった歌人たちと交流が
     ありました。



五十三番目の作者
名前:右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)
生没年:937年頃〜995年
性別:女性
出典:「拾遺集」

  経歴:伊勢守藤原倫寧(いせのかみふじわらともやす)の娘です。
    18歳頃、藤原兼家と結婚し、後に、右大将になる藤原道綱を
    産みました。また、姪に「更級日記」を書いた菅原孝標女がい
    ます。日記文学の代表作品にあたる「蜻蛉日記」はこの人が
    作ったものです。



五十四番目の作者
名前:儀同三司母(ぎどうさんしのはは)
生没年:???年〜996年
性別:女性
出典:「新古今集」

  経歴:高階成忠(たかしななりただ)の娘で、藤原道隆の妻です。
    子に、藤原伊周、藤原隆家、一条天皇中宮定子などがいま
    す。円融天皇に仕え、高内侍と称されました。また、伊周が儀
    同三司と呼ばれていたので、儀同三司母と呼ばれました。晩年
    出家しました。



五十五番目の作者
名前:大納言公任(だいなごんきんとう)
生没年:966年〜1041年
性別:男性
出典:「拾遺集」

  経歴:藤原公任のことです。関白太政大臣藤原頼忠の子です。
    和歌・漢詩・管弦などに堪能だったので、「三船の才」と讃え
    られました。また、この時代は藤原道長の全盛期で、後宮に
    は、紫式部や清少納言などがいて、藤原文化を支えました。



五十六番目の作者
名前:泉式部(いずみしきぶ)
生没年:976年頃〜???年
性別:女性
出典:「後拾遺集」

  経歴: 越前守大江雅致(えちぜんのかみおおえまさむね)の
    娘で、和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍を産みました。
    やがて、冷泉天皇の皇子為尊親王、親王没後は、帥宮敦
    道親王(そちのみやあつみちしんのう)と恋愛し、道貞と離
    別しました。その後、藤原保昌の妻になりました。


五十七番目の作者
名前:紫式部(むらさきしきぶ)
生没年:970年頃〜1014年頃
性別:女性
出典:「新古今集」

  経歴: 父は、文章生出身で、当時著名な学者・詩人の藤原為時
    です。早くに母を失い、父が越前守になると、任地に同行し
    ました。そして、藤原宣孝と結婚し、大弐三位を産みました
    が、2年後に死別してしまいます。その後藤原道長に才能を見
    出されその子の彰子(しょうし)に仕えました。有名な「源氏物
    語」は、この頃書かれました。


五十八の作者
名前:大弐三位(だいにのさんみ)
生没年:999年頃〜1077年頃
性別:女性
出典:「後拾遺集」

  経歴:本名を藤原賢子といい、母は紫式部です。一条天皇の中宮
    彰子に仕え、藤原頼宗や、藤原定頼に愛されました。高階成章
    と結婚し、1025年(万寿2年)に親仁親王(のちの後冷泉天皇)の
    乳母になりました。藤原頼道の時代に多くの歌合に参加しました。
  


五十九番目の作者
名前:赤染 衛門(あかぞめえもん)
生没年:不詳
性別:女性
出典:「後拾遺集」

  経歴:父は、赤染時用です。大江為基を愛したのですが、為基
    は、出家してしまい 、そこで、著名な学者、大江匡衡と結婚
    しました。藤原道長の妻の倫子に仕え、和泉式部や清少納
    言らと交際がありました。夫の死後、宮仕をやめ、晩年は出
    家し、80数歳まで生きました。



六十番目の作者
名前:小式部内侍(こしきぶのないし)
生没年:???年〜1025年
性別:女性
出典:「金葉集」

  経歴:橘道貞の娘で、母は、和泉式部です。母と共に、藤原彰子に
    仕えました。そのため、母の泉式部と区別するために「小式部」
    と呼ばれるようになりました。また、小式部は才色兼備の人で、
    関白藤原教通、藤原頼宗などに愛され、さらに藤原公成の子を
    産んで亡くなりました。





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