六十一番目の作者
名前:伊勢 大輔(いせのたいふ)
生没年:生没年不詳
性別:女性
出展:「詞花集」
   経歴:代々有名な歌人を出している大中臣家の大中臣輔親の
     娘で、高階成順の妻です。1008年(寛弘五年)頃に、一条
     天皇の中宮彰子に仕え多くの歌合に参加しました。また、
     紫式部、和泉式部、赤染衛門、源経信などと交流がありま
     した。



六十二番目の作者
名前:清少納言(せいしょうなごん)
生没年:生没年不詳
性別:女性
出展:「後拾遺集」

   経歴:肥後守清原元輔の娘です。陸奥守橘則光と結婚しま
     し、一児を得ましたが、一条天皇の皇后の定子に仕え
     ました。この時に有名な「枕草子」を著しました。定子の
     没後、前摂津守藤原棟世と結婚しました。晩年は出家し
     、京都郊外に住んでいました。
  


六十三番目の作者
名前:左京大夫道雅(さきょうだいふみちまさ)
生没年:992年〜1054年
性別:男性
出典:「後拾遺集」

  経歴:内大臣藤原伊周(ふじわらのこれちか)の子で、藤原道雅
    といいます。官位は恵まれており、左京大夫従三位になりま
    した。しかし、前斎院当子との恋が三条天皇の怒りをかって
    しまいました。また、一族の藤原道長の勢力が強大になり、父
    の伊周が失脚してしまいました。そのため後半の人生は不遇
    でした。



六十四番目の作者
名前:大納言定頼(だいなごんさだより)
生没年:995年〜1045年
性別:男性
出典:「千載集」

  経歴:藤原公任の子で、藤原定頼といいます。1029年に権中納言
    従三位、翌年には正二位になりました。しかし、1044年に病の
    ために官を辞退しますが、翌年に亡くなりました。やや、軽薄な
    人柄でしたが、音楽、読経、書の名人でした。また、小式部内侍
    や、第弐三位、相模などと関係を持ちました。



六十五番目の作者
名前:相模(さがみ)
生没年:1000年〜???年
性別:女性
出典:「後拾遺集」

  経歴:生没年と父が不詳です。大江公資と結婚します。公資が相模守
    となり赴任したため、相模と呼ばれるようになりました。帰京後、
    藤原定頼と関係を持ち、公資と別れます。その後、脩子内親王に
    仕え、歌の勉強を始めました。藤原頼道時代の歌合で、活躍しま
    した。



六十六番目の作者
名前:大僧正行尊(だいじょうぎょうそん)
生没年:1055年〜1135年
性別:男性
出典:「金葉集」

  経歴:参議源基平の子です。10歳で父を失ってしまい出家します。
    17歳で諸国行脚(旅をしながら僧侶になるための修行)に出ま
    した。その後、天台座主になりましたが、延暦寺との対立によっ
    て、すぐに辞任してしまいます。歌人としても著名でした。



六十七番目の作者
名前:周防内侍(すおうないし)
生没年:不詳
性別:女性
出典:「千載集」

  経歴:平棟仲の娘で、平仲子といいます。後冷泉・後三条・白河・
    堀河天皇に仕えました。また、歌合にも時々参加していました。
    1108年〜1111年の間に亡くなったと考えられています。晩年は
    病気のために出家したそうです。
   


六十八番目の作者
名前:三条院(さんじょういん)
生没年:976年〜1017年
性別:男性
出典:「後拾遺集」

  経歴:第67代の天皇で、冷泉天皇の第二皇子です。986年(寛和2年)
    に一条天皇の皇子になります。1011年(寛弘8年)に即位します。
    しかし、在位中は皇位継承者問題に悩みました。そして、在位6年
    にして、藤原道長の策略によって、後一条天皇に譲位させられま
    した。三条天皇の跡を継いだのは、四歳の敦成親王ですが、三条
    院は、敦成親王の即位まえに没しました。



六十九番目の作者
名前:能因法師(のういんほうし)
生没年:988年〜???年
性別:男性
出典:「後拾遺集」

  経歴:橘永ト(たいばなながやす)といい、父は橘元ト(たちばなもとやす)
    です。一族の橘為ト(たちばなためやす)の養子になりました。藤原長能
    に歌の師事をしてもらいます。また、各地を行脚して見聞を深めました。
    この体験は歌にも反映されました。永トの出家の理由は、恋人が死んで
    しまい無常を感じたからだそうです。



七十番目の作者
名前:良暹法師(りょうぜんほうし)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「後拾遺集」

  経歴:比叡山の僧侶で、一説では1064年頃に67歳ぐらいで亡くなった、とも
    いわれています。しかし、はっきりしたことは何一つ分かっていません。
    和歌の才能があったので、貴族たちと関係がありました。そのため、歌合
    に、しばしば参加していました。晩年は、京都の大原というところに住んで
    いたといわれています。





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