八十一番目の作者
名前:後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)
生没年:1139年〜1191年
性別:男性
出典:「千載集」
   経歴:藤原実定のことです。1189年に左大臣に就任します。祖父の
    徳大寺左大臣実能と区別して、後徳大寺左大臣と呼ばれました。
    藤原定家の従兄弟にあたります。かなり気性の激しい人だとつた
    えれています。



八十二番目の作者
名前:道因法師(どういんほうし)
生没年:不詳
性別:男性
出典:「千載集」

   経歴:藤原敦頼といいます。崇徳天皇に仕え、従五位上馬助という役職
     になりました。出家してから、道因と名乗るようになりました。歌の勉
     強を熱心にした人で、広田明神という神様に請われて、広田で歌合を
     行ったといわれています。



八十三番目の作者
名前:皇太后宮大夫俊成(こうたいごうごうぶしゅんぜい)
生没年:1114年〜1204年
性別:男性
出典:「千載集」

  経歴:藤原俊成といい、父は藤原俊忠で、子に子の「百人一首」を作った
    藤原定家がいます。父の死後、葉室顕頼の養子になります。1152年
    に皇太后大夫となり、1176年に出家します。俊成は和歌の才能があ
    り、歌壇の指導者の地位になりました。また、多くの和歌に関する書物
    を著し、定家ら多くの新古今時代の歌人を育てました。和歌の道で、
    対抗する六条家を圧倒しました。
  


八十四番目の作者
名前:藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけのあそん)
生没年:1104年〜1177年
性別:男性
出典:「新古今集」

  経歴:藤原顕輔の二男です。父に疎外され、官位には恵ぐまれませ
    んでした。「和歌初学抄」や「袋草子」、「奥儀抄」など多くの歌学書
    を著しました。やがて、父から六条家を継ぎ、藤原俊成に対抗しま
    した。六条家歌学の確立者であるのみならず、平安歌学の大成者
    になりました。



八十五番目の作者
名前:俊恵法師(しゅんえほうし)
生没年:1113年〜???年
性別:男性
出典:「千載集」

  経歴:源俊頼の子です。10歳の時に父が亡くなり、その前後に出家
    して、東大寺の僧になりました。京都白河に自分の僧房を作り、
    そこを「歌林寺」と名づけ、盛んに歌会を開きました。ここに集っ
    た歌人は、藤原清輔、源頼政、殷富門院などさまざまです。また、
    歌壇に大きな刺激を与えました。



八十六番目の作者
名前:西行法師(さいぎょうほうしひら)
生没年:1118年〜1190年
性別:男性
出典:「千載集」

  経歴: 本名は佐藤義清といい、鳥羽院の時の北面の武士
    でした。23歳で出家し、仏教と和歌の道に精進しました。
    崇徳院らの死後、貴族たちと離れ、陸奥・四国・伊勢など
    を旅しました。この旅の間で数多くの歌が詠まれました。



八十七番目の作者
名前:寂連法師(じゃくれんほうし)
生没年:???年〜1202年
性別:男性
出典:「新古今集」

  経歴: 藤原定長といい、父は藤原定家の父の俊成の弟にあた
    る俊海です。1150年(久安6年)頃に俊成の養子になり、11
    72年(承安2年)頃に出家しました。出家する前から、歌人と
    して活躍し、多くの歌を作りました。また、定家と共に、旺盛な
    作歌活動を行い、その才能を後鳥羽上皇から高く評価され、
    和歌所寄人になりました。「新古今集」の撰者の一人ですが完
    成する前に没しました。



八十八番目の作者
名前:皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)
生没年:不詳
性別:女性
出典:「千載集」

  経歴:源俊隆の娘です。崇徳天皇の皇后皇嘉門院に仕えていたので、
    こう呼ばれました。皇后は、藤原忠道の娘で、九条兼実の姉にあ
    たります。その縁で、兼実邸で行われる歌合に出詠しています。11
    81年(養和元年)に皇嘉門院が没した時には、すでに出家していま
    した。



八十九番目の作者
名前:式子内親王(しょくしないしんおう)
生没年:???年〜1201年
性別:女性
出典:「新古今集」

  経歴:後白河天皇の第三皇女で、殷富門院と同母です。1159年(平治
    元年)から1169年(嘉応元年)まで、賀茂斎院を勤めました。その後
    一生独身で過ごし、和歌を作りました。歌は、藤原俊成・定家に師事
    しました。新古今を代表する女流歌人です。



九十番目の作者
名前:殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)
生没年:不詳
性別:女性
出典:「千載集」

  経歴:藤原信成の娘です。後白河上皇皇女の亮子内親王(殷富門院)
    に仕えていたので、こう呼ばれるようになりました。藤原定家・寂連
    法師・西行法師・源頼政など、多くの歌人と交際がありました。また、
    当時を代表する女房歌人でした。晩年は、殷富門院が出家すると
    それに従って尼になりました。





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