Q;故郷を歩いてみた感想をお聞かせください。
A;ほとんど覚えていないですよ。昔はハイキングしたり、山へ連れていってもらいったりたことなんてありませんでしたからね。七つ森なんて知らなかったし‥‥‥。都会から山へ行くなんてなかったから‥‥‥都会ってっても舞野村っていう村だったけどね。友達と一緒に塀へ上って落っこちたことぐらいしか覚えていないねえ。親父が学校へ行く後ろ姿だけは覚えてるけど。
Q;七つ森を訪れて「何も思い出せない」とおっしゃってましたが?
A;親父の後ろ姿が薄く禿げてたのを覚えてます。それと、親父が息を引き取るときに「ぐぁっ」というような、音を出したのを覚えてます。後で考えてみればね。
Q;今回久しぶりに訪れた印象はいかがですか?
A;黒川郡舞野村のは覚えてるんです。うちの父は農学校の教師だったんですが、いま振り返ってみると、何にもなくてほんとに田んぼの中に山道があって、町らしいものがあったんでしょうか‥‥‥ほとんど記憶がないですね。父の実家が丸森町になってますが、阿武隈川があって山の上で、今でも農家をやってますがね。遊んだ友達もいないし‥‥‥。
Q;作家の方が生まれ育った風土との関わりがあるといわれますが、どうお考えですか?
A;『大人になっても忘れないようにこの風景を覚えておこう』なんて、子どもが考えることは全くないわけですよ。後になって振り返ってみると、佐藤の父の実家は今も農家ですが、偶然かもしれないが六十何年土をいじって生きてきたようなもので。偶然でしょうが、自分の祖先と同じように土をいじってきたということが、宮城県に生まれこつこつ耐えることを、体で覚えてきたのかなあ、とそう思わざるを得ないですね。
Q;フランスのロダン美術館での展覧会について教えて下さい。
A;僕たちが学生の頃には、フランスというよりもパリが憧れでね。同じ具象でもイタリアのマリニとかマンズーとかグレコとか、その流れが日本に来ましたが、その以前の我々の頃にはロダンとかマイヨールとかデスピオ、それが我々の憧れだったわけです。そのパリで展覧会をやれって電話が来たときには嘘のようで、足が震えるっていいますけど、僕は本当に受話器をもってぶるぶる震えたんですよ。あの時で二十年近く前ですから、六十代ぐらい。それで足が震えて、お断わりしたの。私が憧れていたあのフランスで展覧会をするなんて、ほんとに、とんでもないと思ったんです。
それから二ヵ月ぐらいして電話が来て、またやれっていうんです。それで「どうして私なんです?」と聞いたら、相手の方が「今あなたの展覧会をやることはパリにとって意味があることなんです」とおっしゃった。どういう意味があるのか分からないんですよ、自分では。日本では少し名も知られてきてましたが、劣等感があってね。恐ろしい話だったんです。でもそこで、ちょっと覚悟したんです。今日本ではたくさんの人が私の彫刻を知ってるわけです。ああいう具象の遅れた彫刻をしてる人っていうのは、みんなね。あれを持っていったときにこんなひどい目にあって帰ってくるのかな、それでほんの少しでも褒め言葉をもらって帰ってくるのかなと。教育畑を長いことやってきたせいかもしれないけれど、これがこれから彫刻をやる若い人の物差しになるかもしれないな、と思ったんです。あんなことやったらひどい目に合うとか、あの程度でも少しでも良いところがあれば褒められるんだなとか‥‥‥それで決意したんですよ。物差しになれるんであれば、少しは意味があるのかなと思ってね。それでやることになった。
それで自分で選んでおいておいたところに、ロダン美術館の女性のローナンさんって館長さんがやってきたんです。それでアトリエの棚の下の暗いところに、母親の石膏になった原型がおいてあったんです。彼女がひょっとそれを見つけてこれを出してほしい、というから、恥ずかしいからいやだと言ったの。するとどうしても持ってこいというんです。それで、この人は学者だからきっと年代順に並べたいんだろうと思って、鋳物にして送ったんです。僕としては恰好のいいなと思うものを六七十点選んでおいたんですが、彼女はあれもこれもと猫とかそういう小さいものまで選んで、百二十点ぐらいにまで増えちゃった。それを持っていって驚いたのが、パリの新聞やなんかで『母の顔』がすごい評判になっちゃったんです。あれ? と思ってね。シベリアから帰ってきてすぐのことでしたが、アトリエもなくて縁側で乾かないように霧を吹きながら造ったものなんですけどね。
誰でも若い頃から、歌でも踊りでもまずさがあって、それがだんだん積み重なっていって巧くなったり慣れになったりするんでしょうけど、あれは吃りながらものを喋ったような彫刻なんですよ。一生懸命かっこつけようと思って、でもまだ巧くないんですよ、長いことやってませんでしたからね。でもそれが向こうの人に真実味となって訴えかけたんでしょうかね。向こうの新聞や雑誌に批評が出たのを館長さんが送ってくれたんですが、七つぐらいに全部、母の顔が載ってるんです。それで初めて僕は、自分じゃ失敗だと思っても人が見ると良いものがあるんだなあと思ったんです。
近代美術館に出した、代表作といわれてる『群馬の人』なんかも、初め出すのをやめようと思ったんです、ジャガイモみたいな顔だから。そしたらそれが評判になっちゃって、その次に驚いたのが母の顔だったんですよ。
ベルギーかどこかからきた彫刻家が母の顔を見て、「ロダンよりいい」って言って‥‥‥そんな馬鹿な話はないんで、ロダンの屋敷の中でやってるのにね(笑)。でもどこか何か良いところがあったんでしょう。それでそういう言葉で私を褒めてくれたんでしょうね、その人は私にお世辞を言う必要なんかない人ですからね。
Q;その、なんかいいところというのはどこですか?
A;一生懸命母を造ったってことだけですよ。それをいうとまた文学的な話になっちゃうんだけど、親を語るなんていうとね、独り者になって二夫にまみえず、六歳と二歳の子どもを育てて、苦労話っていえば苦労話ですわね。北海道から私のところへ来たときも、家政婦さんのようなことをして働いてくれてましたよ。
Q;母の顔以後、ご自分でどういう変化がありましたか?
A;そういうのは自分ではなかなかわからないんですよ‥‥‥皆さんは体験がある方とない方とおられると思いますが、戦争があったんですね。戦争に駆り出されて、シベリアで三年間捕虜にされて。美術学校は専門学校で五年間だったんですが、その頃友だちなんかと「唯物史観的美術論」って、三笠書房の小さな単行本でしたが、その中にわからないところがあったから聞きにいったんですよ。そうしたら著者が、共産党員だったみたいで、捕まったらしいんです。朝起きたら刑事が来ていて、捕まって留置所に一ヵ月入れられちゃったり‥‥‥まあ私は、そういういろんな経験があるわけです。そういうのはあんまり普通の人は体験しないことですよね。芸術家だったら、感覚の鋭い人だったら、そういう体験を悲しみや怒りとしてそういう作品をつくるんでしょうけれどね。
ところが私は、彫刻をはじめたときも、母の顔を造ったときも、留置所へ入れられて出てきたときも、シベリアから帰ってきたときも、みんなおんなじような、何の感動もないみたいな、そういう人間なのかなんか知らないが、いまでもそうです、ただ同じ写生をしてるわけですよ。
今から二十年ぐらい前かな、大きな展覧会を企画した方がいらしたんだけど、そのときデパートの松屋で、デッサンも一緒でしたが、初めて自分の彫刻をずらりと七八十点並べて見たわけです。でもそのとき思ったんです。初期の頃から私みたいな何の変化もないような人間でも、その時代時代でもって、おんなじ写生のような具象の彫刻でもね違ってきてることに気がついたんです。シベリアでは男ばっかりの世界で、お百姓の人だとか、土工さんとか大工さんとかね‥‥‥すばらしい男に巡り会ったとか、人間は社会的位やなんかの問題じゃないんだなとか、言葉で言えばそんなことになるんでしょうけど、そうじゃなくて、ああほんとにこの人は付き合える人だなと感じたのは確かです。それで帰ってきてつくったのは、「木曽」だとか「北国の女」とか「常磐の大工」とか、割合そういうのが多くてね。佐藤忠良の地方巡りとかいわれました。意外とお百姓らしいというか、あんまり美男美女じゃないものをつくってるんですよ。並べて見て、それがわかってね。「ああ、おれにもやっぱりそういう変化があったんだ」と思ってね。
それが過ぎてくると今度は、彼女(笹戸さん)が帽子をかぶったちょっと洒落たようなものになってきて、それが堕落なのか良くなったのか、私にはよくわからないけれども。とにかく、私なりに変化があったことが、並べて見てよくわかりましたよ。怒りの表現とか苦悩の表現だとか、そういうのはあまりないんですよ。私の場合は、そこはかとなく何となく、なんですね。