Q;シベリアで逃亡して、どうせならパリまで歩いていこうと思った。その辺のことを教えてください。
A;ソビエトのスイフン川っていう大きな川があるんですよ、そこの裏に山があって第二中隊へ連れていかれたんですよ、日本から。夜中に突然、戦争が始まるぞって知らせるラッパがあるんですが、それが鳴ったんです。あの頃、僕は三十二歳ぐらいになってたかな。普通の人は二十歳で兵隊検査をして兵隊にとられるんですね。僕のような補充兵でも連れていかなけりゃ、戦争も危ないっていう時代だったんでしょうね。昭和19年でしたから。
大学出てる人は幹部候補生っていって割合出世が早くて、軍曹とかになって号令かけたりするわけです。僕よりずっと若いわけですよ、二十二か三ぐらいでですからね。ようし何くそ、かついでも走っても絶対に負けまいと思ったんです。あの頃は大学出てるってだけでぶん殴られたんです。芸術家だなんていうと、もっとぶん殴られたんです。今考えれば馬鹿みたいな話ですがね、そういう組織だしそういう時代だったんですよ。殴られて「お世話になりました」ってお辞儀してね。二等兵から一等兵になったのも一番、精勤賞も一番、上等兵になっても一番で、明日から楽になれるなあと思ったんです、その晩に非常呼集ラッパっていうのが鳴ったわけです。
僕たちの陣地から、ソビエトが軍事教練しているのが見えた、川をはさんでこっちが日本の中隊があったもんですからね。だから攻めてきたらすぐに突撃なんですよね。
僕は気が弱くてね、子どものときから。鉄砲に火薬をはさんでパンって撃つやつがあるでしょう。あれが駄目でね。記念撮影のときのマグネシウムをバカンとやる、あれも、今か今かと目を見はってるくらいで、写真もありますけどとても怖かったの。それに運動会でも、ヨーイ、ドン!って鳴ってから一回後ろへ戻って走り出すような子で、それでも速いほうだったですけどね……それが鉄砲持って撃たせられるんですから、怖いですよ。
こいつはえらいことになったなあ、と思って。夜になると、山の上のほうから弾が飛んでくるのが見えるんですよ。山のうしろに戦車や大砲なんかが置いてあるんですよ、日本の。それを狙ってソビエトが撃ってくるんです。ボーンと大砲の弾が飛んでくるのが見えるんです、当たらないんですけどね。それから兵隊が山を登ってくるんですけども、僕らは山の上から顔を出して撃たなきゃいけないから、向こうの弾に当たって死んじゃうわけです。それで僕は意気地なしだから、なるべく顔を出さないようにして撃ってたんですが、そのうち回りにはあと二〜三人しかいなくなったんです。
そのとき隊長が日本刀を抜いて「突撃!」っていって、その時僕は「待ってください!」って叫んじゃったんですよ。そんなこといえば侍だったらスパッと斬られるところですよ。それで一分の後には死ぬところだったですよ、斬られるか、敵の弾に当たるかして……戦争にとられる前に、滝沢さんや宇野さんたちと新劇をやってた役者が死んだっていうのを聞いて、戦争ってなんて勿体ないことをするんだろうな、って思ったんです。学校出て二〜三年で兵隊にとられて、佐藤忠良、ここで死ぬのか、勿体ないなあって気になっちゃったんですよ、ほんとにね。脱走して、逃げてやろうと真剣に思ってたんです。一年間兵舎で訓練してましたから、わかるんですよ回りのことが。カンパンと手榴弾を一つ入れて、隠しておいたんですよ。
それが急に突撃っていわれて、びっくりしちゃったんですよ。僕は三十二歳ぐらいだったかな。隊長はまだ二十四〜五歳だったでしょうね、大学出たばっかりで。「隊長、ここで死んでも何にもなりません」って言ってね、人間からいえばこっちは三十二、向こうは二十五ですから。山の上から見てたら、本隊が山の向こうに逃げていくのが見えたんです。つまり我々は、十分でも十五分でもいいからブレーキになるように置いていかれたんですよ。それを知ってましたからね。だから僕は、ここで死んでも何もなりませんから本隊へ戻って一緒に戦おうじゃないですか、って嘘をいったんです。そしたら、向こうもその気になっちゃった。もう一人軍曹がいたんですが腰が抜けちゃって、彼を抱えて三人で山を下りたんで、まあ、今日ここにいるわけですけれどもね。あの隊長もまだ生きてるかもしれませんけどもね。
それで逃げたものの、日本海を渡って日本へは帰れないわけですよ、大陸からは。それで逃げたからには、地続きのパリへ行こうと思ったですよ。佐藤忠良、勿体ないということは、彫刻やりたいってことなんですよ、僕はね。あの辺でうろうろしててもしょうがないから、結局、パリへでも行くより仕方がないと思ったわけです。
それから半月くらいですかねえ、戦争が終わったことを知らないわけです、僕は。ソビエトのほうも白夜で眠れないから、音楽を流しながらトラックが走っていくんですよ。こっちは、戦争でもこんな音楽を流したりするもんなんだなあ、と思ってたんですね。あの頃は秋で、トウモロコシでもカボチャでもジャガイモでも、生で食ってたですよ。火を焚くと、煙が上がって見つかると思い込んでたんでしょうね。南方のほうで、水だけ飲んで一ヵ月も生きてた少年の兵隊がいたって何かで読んで、へえ、水だけでも一ヵ月も生きられるんだなって思ったですよ。今思えば、軍部が士気高揚のためにああいう発表をしたのかもしれませんがね。
そのうち山から見てたら日本の戦車や大砲がぞろっと並んでいるんですよ。それで降りていってみたら、「戦争が終わった」っていう張り紙がしてあって、ありゃっと思って。ああ、それで賑やかに兵隊が音楽を鳴らしながら騒いでたんです。それでまた隊長に「捕虜になってみようじゃないですか」っていって降りてみたら、逃げてるやつらがいろいろいるんですね、兵隊で。それが集まってきてて、別な人になってた。新しい靴や服を着てたんだけど、ぼろぼろのやつを着せられちゃって。でもあのときは、パリまで歩いていこうと真剣に考えてたですね。
Q;実際にパリに行かれたのはいつですか?
A;何十年後ですね、東京造形大学の卒業生と一緒に……親を騙すには大学ほどいいとこはないって、入学式のとき言ったんです、親の方が来てるところでね。一年間の半分は休みだし、職人は一日土をいじらざれば一日の退歩っていうんです。一日土をいじらなければ、一日木を叩かないと、鉋いじんないと、大工になれない。それが大学だと、一年に半分休みなんですよ。学課が半分で、実技はその半分なんですから。一年で90日間、4年間やって360日。しかもそのうち1/3、つまり120日間は休んでも留年しないそうなんですよ。4年間で240日彫刻やってれば彫刻家らしいんだね、どうも。恐ろしい話ですよ、まったく。僕がそういったらあとから先生に言われましたよ、「学生にあんなこと言わないでください」って。学生はその通りやる、っていうんです。僕は明治の人間なんで、そういわれりゃ「大変だ! こりゃ恐ろしい、勉強しなけりゃ」と思うだろうと思ったんですが、今の学生は逆に休んじゃうんだそうですよ。
あと言ったのは、騙されたと思って、4年浪人したと思えばいいじゃないかと。それで4年生になったときに学生たちにいったんですよ、もう一回親騙してこいって。農協と一緒にでも、団体で行ってもいいから、パリへ行って美術館見てね、東京造形大学で習ったところで少しでもいいところがあるかもしれないと。ちょうどその頃、僕の友人で船山っていうのがいて、彼の新聞小説の挿し絵を描いてたんで、おれはちょっと行かれないと思ってたんです。そしたらちょうど船山の連載が終わったんで、僕も行けたんですよ。それで初めて洋行したんです、僕は。もう今から30年前か、50いくつの時ですよ。
Q;以前著書で、その時ヨーロッパの風景のスケッチをしてたが、すぐに飽きたというようなことを言っていますが、どうだったんでしょう。
A;あのね、向こうの建物っていうのは大体ひとつの風景の中に、ぽんと教会の塔みたいなのが建ってるんですね。本当なんですよ。下手なものはないほうがいいと、田舎の風景なんかいいなあと思うんです。仙台みたいに100メートルの仏像なんか建ってるより……ほんとあれ、公害ですよね。ヨーロッパは必ずどこかに塔があるんですよ、それで絵になるんですよ。それがあるいは、「またか」っていう感じになったのかもしれませんね。でもあの頃の学生は皆スケッチなんですよ。今は美術大学の学生でスケッチブックなんか持ってる人はほとんどいないでしょう。描くってことは馬鹿みたいなことだって……。
Q;デッサン、スケッチ、物を見るということですが。何か造ろうとされるとき、やはりモチーフを決めて、それをどうしていこうかというシナリオがあると思うんですが。
A;シナリオっていえば、まあ、言えばシナリオなのかもしれないんですが……ただ僕は彼女(笹戸さん)の顔なんかもずいぶん造っていますがね、彼女もあなた(インタビュアー)も、「自然」なんです、ひとつの生物なんですよ、これはね。夫婦だって、惚れてすばらしいと思って、喧嘩したりし合って、お互いに誤解して……とにかく闘いがあるわけでしょ。彼女だって、ずいぶん顔は変わりましたが、本当の顔は見せてくれないですよ。こっちの掴み方の能力が薄いのか、それとも自然とは掴めないものなのか。木の肌ひとつ見たって、蝶々ひとつ見たって、誰がこんな羽のデザインを発明したんだろうって思いますよね、みんなおんなじ模様がついてるでしょ? デザイナーがいたんですね、昔、神様かなんなのか知らないけれどもね。自然ってのはほんとに掴めないんですよ。掴み切れないんですよね。そこなんですよ、私らが一つのものにへばり付いてるんですから。
ただ自然なんか見なくてもいいって考え方と、私みたいに彫っても彫っても、私の不足なのか、それとも自然ってのはそれほど難しいのか、その辺のことは今でも分かんないです。
Q;古木のスケッチなどは、いろんなところでじっくり見て描こうとしますよね、その時に、過去の記憶とか、描いてきたこととか、経験だとか、いろんなことが入ってきますよね。
A;木のことが出てきたんでね(スケッチを取り出す)……こういう古い木になっちゃうと、瘤になったり割れ目になったり、人間でいうとガンか何か知らないけれども、これは相当の古木ですよね。何故木を描くようになったかというと、舟越がね本に出してたんですよ、皺がきたないって。そういうエッセイがあったんです。それを読んでたら、我々の顔の皺はきたないって。それを読んでたら、女の人は夏になったら半袖でハンドバッグを持てっていうんですよ、そうすると肘を曲げるから肌がつるっとするでしょう。我々の顔は年をとると履歴になってきたないって、書いてあるんですよ。
その時、ひょっと思ったんです。待てよ、と。我々だって生まれたばかりのときはつるつるっとして、履歴がないから可愛い。狡さも誠実さも何にもなくて、つるっとした可愛さ。それがだんだん小学校ぐらいになると、親との闘いの中で狡さが出てきて、私ぐらいの年になると歪みや皺になって出てくる。その年が、狡さや誠実さになって歪みや皺になって出てくる。それが我々の顔なわけですよ。誰だってそりゃ、狡さや誠実さっていうのはあると思うんです。
ところが木ってやつは、まったく狡さがないですよね。自然といかに闘って、なにくそと思ってこうやって、根っこを張って地べたをしっかり押さえて、生まれたときはすうっとして、赤ん坊や少年みたいだけれど、だんだんこのなにくそと地面を掴んで倒れまいとして、こんなふうになってくるわけですよ。(スケッチを示す)そのうち、だんだんだんだん、割れ目になったり瘤になったり……これは耐えたひとつの姿に見えてきたんです。
それで根っこからひょっと新芽が出てきてるのを見たりすると、これは長い間教育に身を置いてきたせいかもしれませんが、「おっ! やってくれてるな」という気がするんですよ。あんな爺婆になっても新芽をふいてるなんて……今まではこんなこと気がついたことなかったんですが。やっぱり、年とったせいでしょうかね。教育ですよ。新芽をふいてよく頑張ってくれてるな、って思いますよ。もちろんこれは私の勝手な解釈かもしれませんがね。いまでは枯葉なんてのは、このアトリエの近くを歩いていてひょっと拾うようになってきたんだね、年をとってきてから。人間だったらこれ(スケッチを見ながら)、ガンかなんかになって食われて穴だらけになって、それで耐えられなくなってぱたっと息引き取って、ね。