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〜琉球王国について〜
琉球王国は、15〜19世紀に現在の沖縄の位置に存在していた。初めに、琉球王国が出来るまでの経緯を紹介しよう。
琉球王国誕生以前の9〜10世紀頃(日本では平安時代)に、沖縄島における集団農耕生活の中から「按司(あじ)」と呼ばれる支配者(豪族)が現れた。14世紀頃からは、沖縄島は「中山」・「山北」・「山南」の三国に分かれて相争うようになった。三国とも明(中国)に朝貢し、東南アジアと貿易をすることで力を蓄え、勢力を争っていた。
1429年、「中山」の尚巴志(しょうはし:尚氏の2代目)が3つの分裂した国を統一し、沖縄に初めて統一国が出現した。これが尚王家を頂点とする琉球王国の始まりである。なお、この琉球王国の拠点は、沖縄の観光地として有名な「首里城」である。

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By The Way 〜 朝貢とは 〜
近代になるまで、東アジアは中国が中心でした。周りを取り囲む国々は、中国の統一王朝(この場合は「明」)に貢物を送ることで「朝貢国」という位をもらいその地域の王として認められました。沖縄や朝鮮などの国も朝貢国として中国の下で国を治めていました。
日本は、聖徳太子の「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す、恙無(つつがな)きや」という国書を「隋」に送ったことが知られているように、中国とは対等の関係を取り続けてきました。しかし実際には、1401年(室町時代)足利義光が明の朝貢国となり明帝から日本国王として認められ、日明貿易(勘合貿易)を開始しました。その後、日本は戦国時代にとなり室町幕府が終わることにより、日本の明への従属関係は終わりました。その後は、日本を統一した豊臣秀吉が明に攻め込むなどして、日民関係は悪化し、二度と日本が中国の朝貢国となることはありませんでした。
By The Way 〜 琉球王国「首里城」〜
首里城は琉球王国の中心となる城でした。しかし、太平洋戦争時に日本軍の司令部が首里城に設置され、アメリカ軍の攻撃によって首里城はほとんど破壊されてしまうことになりました。
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次に、琉球王国の歴史を紹介する。前に述べた経緯で誕生した琉球王国だが、尚巴志が亡くなった後は王位継承をめぐる内乱や、豪族による反乱が絶えることなく起こった。そして、ついに1469年に、内間金丸(うちまかなまる)を中心とした反乱が起こり、琉球王国を支配することになった。翌年、内間金丸は金丸という人物を「尚円(しょうえん)」と名乗らせ、尚円を王に立てた。この後の琉球王国王朝は「第二尚氏王朝」と呼ばれていて、日本の明治時代まで続いた。ちなみに政権が交代する前までは「第一尚氏王朝」と呼ばれている。
二つの王朝を通じて琉球王国の最も大きな特徴は、「かなり大規模な中継貿易の拠点であった事」・「日本と中国に両属していたきわめて特殊な国であった事」の2点である。
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琉球王国は、琉球王国が誕生する以前から交易のあった中国の明をはじめ、日本・朝鮮・東南アジア諸国との貿易を行った。琉球王国はこの中継貿易によって繁栄したのだ。
琉球王国は、古くから隣国として日本とも交流があった。しかし、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵をする際に、薩摩の島津氏を通じて琉球王国に協力を要求してきた際、これを拒否した。これによって琉球王国は、明(中国)寄りの立場を取るようになった。江戸幕府を開いた徳川家康が、琉球王国に朝鮮出兵によって悪化した明との仲を取り持つように指示した時も、これを無視した。このように、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて琉球王国は日本を完全に無視していた。
1609年、薩摩藩の島津氏は江戸幕府の承諾の上、琉球王国の日本に対する無礼を名目として、3000人もの兵を持って琉球王国に攻め込んだ。戦力を持たない琉球王国が応戦できず、ほとんど抵抗もなく琉球王国は薩摩藩に征服された。元来、琉球王国は中国に朝貢していたのに加え、日本にも支配されることになった。これが琉球王国の受けた二重支配である。
このような琉球王国における特殊な立場は、1879年、明治時代に琉球王国が沖縄県となる(後述)まで続いた。
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By The Way 〜 琉球王国の身分制度 〜
琉球王国は、中国・日本からの二重支配を受けながらも独自の身分制・税制を持っていました。琉球王国の身分制は「系図の有無によって地位が分かれる」というものでした。系図を持つ者は支配者階級となり「系持」と呼ばれ、逆に、系図を持たない百姓は「無系」と呼ばれました。それ以外には、琉球王国には女性だけでできた聖職者組織が存在し、大きな力を持っていました。無系の人々には収穫・労役などの税を納める義務があり、加えて薩摩藩にも納税しなければなりませんでした。琉球王国の人々にはかなり重い負担がかかっていたようです。
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