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〜沖縄決戦から現代まで〜
沖縄「ひめゆりの塔」をご存知だろうか?ひめゆりの塔とは、第二次世界大戦末期に沖縄が戦場となった時に結成された学生看護隊「ひめゆり隊」からその名称が来ている。彼女らは戦争のさなか負傷した日本兵を看護した。しかし、アメリカ軍に追い詰められ、581名のうち334名が犠牲になった。沖縄は、日本国内で唯一地上戦が行われた場所である。この「沖縄決戦」と呼ばれる日本の守備隊とアメリカ軍な戦いは、ひめゆり隊のみにとどまらないたくさんの悲劇を生んだ。
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太平洋戦争初期には優勢だった日本だが、1942年8月のミッドウェー海戦で敗北した後は劣勢になり、トラック諸島の海軍基地も破壊され、1944年7月7日にサイパン島の守備隊が全滅することによって日本は追い詰められた。この時、沖縄は日本本土とサイパン島付近のアメリカ戦線との中間地点に位置することになった。戦艦大和が沖縄近海に移動し沖縄島の防衛にあたったが、アメリカ海軍の集中攻撃にさらされ沈没した。こうして本土でのアメリカ軍との決戦を控えた中で、沖縄本土での決戦が始まった。
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1945年4月1日、米軍が沖縄島にはじめて上陸した。この当時、一般の人々は日本政府による教育によって「鬼畜米英、生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず(アメリカ人は鬼、捕虜になったら殺される)」と教え込まれていた。沖縄の人々も徹底してこのように行動し、捕虜になるより自決してしまうケースが多く発生した。また捕虜になった住民は、日本軍の秘密をもらさないようにと日本軍に射殺されてしまうこともあった。
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沖縄決戦では、米軍と日本軍の戦力差は明らかだった。学生によって構成された「学徒隊」を含めても沖縄守備隊の数は11万程であったのに対し、アメリカ軍の陸軍・海軍・海兵隊の数は54万人にも上っていた。
牛島満司令官の率いる沖縄守備隊の抵抗は80日間にも及び、悲惨な戦いになった。沖縄決戦は、軍人の戦死者9万3000人、住民の犠牲者は13万人以上になった。沖縄住民の三分一が犠牲になったのだ。
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第二次世界大戦終戦後、沖縄はアメリカによって占領されることになった。県民は沖縄の日本領復帰を要求したが、1951年のサンフランシスコ平和条約により沖縄はアメリカの統治下に置かれる事が正式に決定した。その後、アメリカは米軍基地の設置を中心とした沖縄復興を開始した。日本国内からも沖縄返還要求の声が高まり、サンフランシスコ平和条約から21年後、無条件降伏から37年後の1972年5月15日、沖縄は27年振りに日本の正式な県に戻ってきた。
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こうして、沖縄は波乱の歴史を乗り越え現在に至る。しかし今もなお、問題は存在する。アメリカ占領時に作られた米軍基地のほとんどが今もなお残っている事だ。日本に存在する米軍施設の75%が沖縄に集中しており、沖縄県嘉手納町では町の面積の8割以上が米軍施設によって占められているという異常な状態だ。米兵による暴行や強姦などの犯罪も発生している。住民の米軍基地に対する不満は常に存在していて、今後の日本政府及び沖縄県の対応が注目されるだろう。
中国、日本、朝鮮、東アジアに挟まれた沖縄は時には悲惨な歴史をたどってきた。沖縄文化や沖縄音楽に存在する雰囲気はそこから来ているのかもしれない。

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