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〜 琉球王国、沖縄県へ 〜
琉球王国の経済状況は18世紀の終わりごろから悪化し始めた。身売りや税の滞納をする人々が激増して村が崩壊するといった自体が頻発するようになった。19世紀の中頃には、イギリスやアメリカの船が日本との通商外交の糸口をつかむためにたびたび琉球王国を訪れるようになった。
この頃、日本は鎖国状態であったため、幕府は外国船が琉球に来航しても琉球王国の開国を認めなかった。ところが、イギリスやアメリカなどの西欧諸国の琉球開国要求は強硬で、1846年に、危険を感じた幕府は琉球の開国を認めた。この幕府の方向転換は、外圧を緩和する目的のほか、琉球を鎖国制度維持のための捨て石にするという考えがあったものだ。こうして、王による支配は危機を迎える事となった。
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本題はここからだ。江戸時代から、日本は琉球王国を日本の一部として組み込みたいと考えていた。琉球王国は、清からの支配も受けていたため、清の反発を予想した日本政府はまず琉球王国に琉球藩を設置し、さらに廃藩置県を利用して琉球を日本の県として組み込んだ。
詳細はこうだ。1871年、台湾人による琉球宮古の漁船乗組員虐殺事件が起こり、これに日本が抗議することで琉球への支配を主張した。日本政府は漁船乗組員虐殺事件に対して清に謝罪を要求したが、清がこれを無視したため、1874年に台湾に出兵した。清は日本軍の撤退を求めたが、その際、清は日本への謝罪の意を含めて「台湾出兵は日本国民が殺害されたことへの正当な報復であった」と琉球が日本の一部である事を認めてしまったのである。清からの事実上の了解が得られたことで、1879年、日本は廃藩置県によって沖縄県を設置した。日本が琉球藩を設置してから県への移行を宣言して琉球王国を日本の一部にした経緯を「琉球処分」と呼ぶ。
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By The Way 〜琉球処分と沖縄大衆音楽の幕開け〜
沖縄「大衆音楽」の始まりは、廃藩置県によって琉球が日本の一部になったこの頃です。それまで、三線などを使った琉球独自の「古典音楽」は士族階級の人々が受け継いできました。けれど、廃藩置県によって琉球が日本の統治下になった時、これら人々は職を失い、その結果彼らの受け継いできた伝統的な音楽スタイルが一般の人々の間にも広まるようになったのです。
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