1865年(元冶二年、慶応元年) | |
1月8日 | 谷万太郎、谷三十郎、正木直太郎、高野十郎らが大阪松屋町の石蔵を襲撃して土佐の大利鼎吉を斬殺する。 |
1月10日 | 谷万太郎は8日の襲撃事件の報告書を土方に提出する。 |
1月11日 | 大坂天神橋に檄文を張り出す。 |
1月19日 | 津藩士中村左馬は新選組の屯所を訪れて大阪の情勢を聴取する。 |
1月27日 | 隊士役30名は大阪で源氏太夫の残党を1名斬殺、23名捕縛。 |
2月9日 | 土方、彦五郎に手紙を記す。 |
2月22日 | 山南が脱走。沖田が大津で捕らえる。 |
2月23日 | 山南、新選組屯所で切腹。 |
2月24日 | 山南の葬儀が行われる。 |
2月28日 | 西本願寺に屯所移転を了承する口上書を朝廷に提出。 |
3月1日 | 土方、彦五郎に手紙を記す。 |
3月3日 | 大谷良輔、切腹。 |
3月6日 | 三条通りで押借りをしていた6名を捕縛する。 |
3月10日 | 八木邸に挨拶をし、西本願寺北集会所へ屯所を移転。 |
3月21日 | 沖田が山南が死亡したことを佐藤家に手紙を送る。 |
3月25日 | 土方、斎藤、伊東は隊士募集のために江戸へ下る。 |
3月26日 | 祇園一帯の出火に新選組出動。 |
4月7日 | 元治から慶応に改元される。 |
4月18日 | 彦五郎、源之助は江戸へ帰る。 |
4月27日 | 新入隊士52名を引き連れて、土方、斎藤、伊東、藤堂らは江戸を出発する。 |
4月中 | 隊の編成替えで隊を10組に分ける。 |
5月9日 | 土方たちは草津に宿泊。 |
5月10日 | 土方一行、京へ到着。 |
5月26日 | 大阪の儒者藤井藍田を捕縛し万福寺に収容する。 |
閏5月5日 | 京橋で不審人物の検問を行う。 |
閏5月11日 | 京都松ヶ崎に潜伏していた長州人を捕縛。 |
閏5月12日 | 藤井藍田、大阪万福寺の獄舎で死亡。 |
閏5月13日 | 上洛していた将軍家茂を膳所において妨害する計画が発覚する。 |
閏5月14日 | 佐野七五三之助ら隊士が膳所に出張して、河瀬太宰宅を探索中に妻の幸が自殺を図る。 |
閏5月15日 | 河瀬太宰ら3名を捕縛。 |
閏5月18日 | 河内狭山藩士山本時次郎を捕縛。 |
閏5月22日 |
将軍家茂が京の入洛のため三条蹴上に出迎え、二条城まで警護をする。 また近藤は、家茂に同行していた木町屋の南部清一宅に宿泊している松本良順を訪ねる。 その後、松本が屯所を訪れて隊士の衛生状態を憂う。 |
閏5月25日 | 将軍家茂の下坂のため、伏見街道藤ノ森まで警護する。 |
6月15日 | 大阪の新選組は五神社に対して目付方宿舎に集合との回状を届ける。 |
6月16日 | 朝に宿舎で三木三郎と天満宮総代の大道吉儀が面談。 |
6月21日 | 施山多喜人、石川三郎が町家の女とと密通した罪により切腹。 |
7月1日 | 隊士134名を列記した「英名録」が作成される。 |
7月18日 | 名古屋辺りで金策を行ったとして、脱走した植田末次ら3名を伊東らは東海道、島田らは中山道を探索する。 |
7月25日 | 佐野牧太を斬殺。 |
7月中 | 伊東、富山弥兵衛、茨木司、久米部正親、篠原泰之進らが大和へ出張するが浪士と衝突し、久米部が足を負傷する。 |
8月1日 | 平藩士佐藤久左衛門、石川弥右衛門が新選組に詫状を記す。 |
8月5日 | 新選組隊士が島原住吉社前で一橋家臣を斬殺する。 |
8月8日 | 武田観柳斉ら隊士が蹴上の茶屋で薩摩藩士橋口四郎を斬殺、隈本荘助を捕縛する。 |
9月1日 | 松原忠司、自刃して光縁寺に埋葬される。 |
9月中 | 第二次「行軍録」を作成。 |
10月3日 | 将軍家茂の下坂中に松平容保は帰還を阻止するため枚方で諌言し帰京させる。 近藤も枚方に行き、家茂を警護する。 |
11月4日 | 近藤、伊東、武田、山崎烝、吉村貫一郎、芦屋登、新井忠雄、尾形俊太郎、服部武雄は長州訊問使に従い広島へ出張する。 |
11月7日 | 近藤一行大阪を出発。 |
11月16日 | 近藤一行広島に到着。 |
11月20日 | 長州訊問使、近藤らの長州入国を求めるが拒絶されてしまう。 |
11月21日 | 伊東によって出牢していた赤根武人ら3名を間者として広島より長州に派遣される。 |
12月12日 | 桜井勇之進、切腹。 |
12月14日 | 近藤、伊東、武田は広島を出発。 |
12月15日 | 近藤一行、岩国の役人長州の入国を求める。 |
12月16日 | 近藤一行、長州入国を断念して岩国を去る。 |
12月17日 | 近藤一行、広島を出発して京へ帰る。 |
12月22日 | 帰京した近藤一行は、会津藩を訪れ報告をする。 |