-1階検証-






①突入

始めに突入した隊士の人数にはいろいろな説がある。
1つめは永倉新八が書いた「浪士文久報国記事」によると、
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人が最初に突入したという4人説が記されている。

また、近藤が池田屋事件の3日後に書いた書簡には、
近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、そして近藤の養子の近藤周平の5人説が記されている。

そして、最初に突入した隊士に奥沢栄介がいたという5人説もある。




②先陣

先陣をきった近藤は「主人はおるか、御用改めであるぞ」と池田屋に突入した。

よく映画やドラマなどで近藤は白地に黒の山形模様の隊服をはおっていることが多いが、
これを裏づける確かな根拠などはない。






③入り口

池田屋の入り口は、永倉新八が書いた「浪士文久報国記事」によると
武田観柳斎と谷万太郎の2人が固めたと記されている。
そしてこのメンバーに浅野早太郎を加えた3人が固めたという説もある。
また、近藤が池田屋事件の3日後に書いた書簡には、谷万太郎ではなく谷三十郎とある。








④近藤危機一髪

1階に移った近藤は最も広い奥の部屋で主に戦った。
この時、近藤は多くの志士たちに囲まれていて何度も危うくなった場面があったと言われている。







⑤永倉新八

永倉新八は1階台所付近を主で戦った。
自身の記した「浪士文久報国記事」にも克明に記されている。

便所に逃げ込もうとした浪士を見つけた永倉は後ろから串刺しにした。
また、自分の刀がこぼれして使えなくなると敵の長州人の刀を分捕って使った。
などという風に永倉はこの池田屋事件で活躍した1人なのである。








⑥藤堂平助負傷

1階中庭付近で戦っていた藤堂平助。
戦闘中に浪士に額を切られてしまう。
出血が多く戦闘に支障をきたすほどだった。








⑦沖田総司倒れる

沖田総司は池田屋事件の最中に何らかの病因で倒れた。
この病因は、沖田の死因ともなった肺結核によるものという説が有力だった。

しかし、これに対して喀血によって倒れるほど病状が進行いたなら
1868年(慶応4年)まで生きていられないと結核説を否定し、
暑さなどからくる貧血という説も今では有力になっている。








⑧捕縛

永倉新八が戦闘中に4人の長州人を捕縛したと「浪士文久報国記事」に記されている。
しかし池田屋惣兵衛がこの長州人を逃がしてしまう。
そして原田左之助が槍でこの長州人を槍で仕留めたとされている。








⑨新選組隊士死亡

2階から脱出した浪士たちが、池田屋の裏手にある長州藩邸に逃げようとした。
そこに裏手を固めていた奥沢栄介が即死したと言われている。
また、安藤早太郎、新田革左衛門も深手を負って1ヶ月程後に死亡してしまう。