ヴァレンヌ逃亡事件

ヴァレンヌ逃亡事件

1791年6月20日 国王ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てたが失敗に終わった事件。

 なんだか間抜けな事件、はたしてその原因は何だったのでしょうか?


いくら度の過ぎた贅沢だったとしても王妃一人のせいで国家の財政が危機に陥ったわけではありません。
理由のひとつにルイ14世時代の赤字、十二億五千万リーブルというとてつもない額がルイ16世に回ってきたことがあげられます。
二番目に1787年以降から続く不作。マリーはヴェルサイユ宮殿の中で遊んでいられなくなり、母、マリアテ・レジアの忠告を無視する事になりました。政治に口出しするようになったのです。
王妃が閣議のメンバーになったことを知った民衆は怒りを募らせていきました。
第三身分が国政に加わるようになり、王制はさらに危機に瀕していきます。
頼りのない夫に代わりマリーはフランス王室を守る決意をします。かつての輝かしい権力をもう一度復活させたいと必死でした。
1791年6月、そんなマリーの下にフィルセンが再び現れました。そして彼女に逃亡を勧めたのです。

国王と議会の調停を保っていたミラボーが急死し、王室を守る人間がいなくなってしまいました。このことをきっかけに革命が急速化。それに不安を感じた国王一家は外国の援助を求め、王妃の実家のオーストリアに助けを求めます。

その計画は大胆でブイエ将軍に軍資金を送る、という口実で各所に連絡所がつくられ国王の馬車はその連絡所をつたって安全にメッツにいるオーストリア軍と合流するはずでした。
しかし、途中馬が転倒するなどのアクシデントが続きオーストリア軍と待ち合わしていた時間より大幅に遅れました。時間になっても国王が現れなかったため、計画は失敗したと思ったオーストリア軍は待ち合わせ場所を離れリュクサンブールへ向かいます。 オーストラリア軍が撤退と入れ違いに一行が現れましたが、そこにはオーストリア軍の姿はありません。国王は、しかたなくサント・ムヌーという町に辿り着くことになります。 そのころには、国王逃亡ニュースがフランス中に知れ渡りついに国王一家はヴァレンヌで逃亡の終わりを告げたのです。

その時の国王が乗っていた馬車はいうと、家族が全員が乗れる広くて豪華な馬車で派手な馬車は 重いといのに、銀食器、衣装箪笥、食料品、のどがすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが詰込まれていました。 これは、すべて王妃マリーアントワネットのわがままであり、フェルセンは逃亡のために軽く足の速い馬車を使い、疑惑をそらすために国王と王妃は別々に行動することを勧めましたが王妃は耳をかしませんでした。
これもヴァレンヌ逃亡事件失敗の原因の一つといえるでしょう。





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