手話法と聴覚障がい教育について
フランスのド・レペ(1712-89)は、手話と指文字で聾児を教育するのがよいとして、「方法的手話」を考案し、実践しました。
ハイニッケ(1747-90)の口話法と同時代であり、「口話手話論争」が存続してきました。
前半は手話法が普及しましたが、1880年の第2回聾教育国際会議で、口話法の優秀性と採用が議決されて以来、世界各国で口話法が優勢を占めました。
日本もその一つです。
しかしその後、口話と手話の結合が主張され、アメリカでは1968年にトータル・コミュニケーション
(口話、手話をはじめ、あらゆるコミュニケーション手段のなかで、もっともよいと考えられる方法を組み合わせて用いる)
が提案されて以来広く普及しました。
わが国では同年(昭和43)から栃木県立聾学校(宇都宮市若草)で口話法と手話、指文字を併用する「同時法的手話」の実践が始まりました。
「手話法」の主張者は、
「手話はろうあ者にとって自然的言語であり、真理に即した方法であり、より充実した情操教育ができ、落ちこぼれのない教育ができる」 という考えでした。
しかし、手話法にもいくつかの問題点があります。
そのひとつは、手話が日本語と直接的な対応をしないことです。
手話では、物事の概念や意味がわかっても、それを日本語の読み書きと対応させて子どもたちに教えることは、実践上の困難が多くありました。
一般の聴覚障がい児童・生徒にとって手話で日本語をマスターするは容易ではなく、なかなかその目標には到達しません。
聴覚障がい者もまた、わが国の風土や社会の中で生活するわけですから、日本の生活や習慣、文化、科学を身につけるためには、どうしても日本語を媒介としなければなりません。
そこで、古河先生(京都盲唖院、初代院長)は、手話を何とか日本語の文法にあうものに近づけようとしていろいろな工夫をこらしました。
手の形による助詞や助動詞を考案したり、指文字を工夫したりします。
ちょうど、フランスで聾教育を開いたド・レペが自然発生的な手話をフランス語に近づけようとして開発した「方法的手話」(フランス法)と同様の発想です。
しかし、「口話手話論争」の末、この方法は約40年で「口話法」に移行しました。
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