第3章〜摂関政治の展開〜

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a.権力を持った藤原氏

 まず、摂関政治とは、天皇が幼少、病気の時に代わって政治をする摂政と、天皇の政治の補佐を 行う関白によって行われる政治のことである。
 この時代の摂政・関白にはほとんど藤原氏がついていたので、当時の藤原氏を藤原摂関家という。
 藤原氏は自分の娘を天皇の嫁にすることで、自分を天皇の外戚とすることで権力をのばじていった。

 藤原氏の台頭としてまず藤原北家の藤原冬嗣が蔵人頭となり権力を握り、 次の藤原良房の時には 恒貞親王擁立計画で橘逸勢らが配流され、さらに権力を確立した。
これを承和の変という。
 858年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は天皇の外祖父として事実上の摂政となる。
そして伴大納言絵巻に描かれている応天門の変により良房は正式に摂政になった。
そして次の藤原基経光孝天皇即位により事実上の関白となり、宇多天皇即位によって 正式に関白となった。
※応天門の変とは・・・大納言伴善男が応天門に火をつけ、 その罪を源信に負わせようとしたのがばれ、 流罪になったという事件である。

 宇多天皇は藤原氏を押さえようと菅原道真を登用し、摂政・ 関白を任命しなかった。
しかし、延喜の治と呼ばれる政治を展開した 醍醐天皇の時に藤原時平の讒言によって菅原道真は 大宰権帥に左遷された。
 朱雀天皇の御時、藤原忠平が摂政・関白となった。
 村上天皇の御時、天暦の治と呼ばれる政治を展開し、乾元大宝を鋳造した。
 藤原実頼の時代から摂関常置へ。
そして969年に源満仲が、源高明らの為平親王擁立の 陰謀を密告するという安和の変がおこり、左大臣源高明が失脚した。
 摂関家の全盛期は、法成寺を建てた藤原道長平等院鳳凰堂を建てた宇治殿と呼ばれる 藤原頼通である。

国際関係では宇多天皇の時代に菅原道真が894年に、唐の衰退と航海の危険を理由に 遣唐使を廃止した。

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